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THE BACK HORN「涙がこぼれたら」|俺の言葉で伝えたいこと

音が跳ねるってこういうイメージなのだろうか、と「涙がこぼれたら」をこれまで聴いてきて思う。「涙がこぼれたら」は2002年8月28日にリリースされたTHE BACK HORNの4枚目のシングルである。前作は「世界樹の下で」。こちらは同年5月29日に発売されていて、どちらの曲も『心臓オーケストラ』に収録されている。

なぜこのタイミングで「世界樹の下で」について言及したのかと言うと、「涙がこぼれたら」のなかで明示される「『兵士の歌』」*1とは、「世界樹の下で」のことを指すのかもしれないと思ったからである。

この部分しか登場しないので真偽のほどは定かではない。地の文が鍵括弧でくくられているので、何かを、言い換えれば「世界樹の下で」という楽曲を象徴するのかもしれない、と感じた次第である。

翻って「涙がこぼれたら」のB面が「ガーデン」というところも超絶にアツい。たった2曲かもしれないけれど、この2曲には情緒をめった刺しにするには十分すぎる威力がある。

「ガーデン」について語りだしたら止まらないので、この場で一つだけ言わせてほしい。2023年6月14日に25周年を記念して発売される予定の『REARRANGE THE BACK HORN』。これに収録される「ガーデン」が心の底から楽しみだ。脳汁が吹き出しそうである。

ところで、「涙がこぼれたら」に秘められた〈切実さ〉の正体は何だろうか。何とはなしに聴いても胸に迫るものがあって、心が無性に掻き立てられる。そういう意味でも、「涙がこぼれたら」という歌は、意図せずとも胸が震える歌である。

ものすごい速さで颯爽と駆け抜けていく切なさが刻みつけるのは、もはやトラウマに等しい。

「涙がこぼれたら」で汲々と押し寄せてくる〈切実さ〉は、印象的と言えばそれまでであるが、やはりそれ以上に絆されそうになるというか、絡めとられそうになるような引力を秘めているようにも思える。

〈切実さ〉の震源は一体どこにあるのだろうか。個人的に思うのは、汲々と押し寄せる〈切実さ〉の正体とは、俺が俺であろうと本気で想う心意気、言い換えれば俺が俺であるために自分の言葉を使うことではないかと思う。

ここではそう思った経緯をなぞりながら、その核心に触れてみたい。

胸の奥で張り裂けそうな

想いはきっと真実だろう

THE BACK HORN「涙がこぼれたら」、2002年

何が本当の想いなのか、とか、これは本当に思っていることなのだろうか、と自問自答することはままある。自分のことなのに、自分の本心が読み取れないことは茶飯事だったりもする。

が、ここでTHE BACK HORNが示したように、自分が抱えているものが「胸の奥で張り裂けそうな想い」だとすれば、それはきっと信じてあげてもいい代物なのかもしれない。

というのも、その肯定とともに、私たちははじめて筆舌に尽くしがたい想いの核心に迫ることができるのかもしれないのだから。そうした淡い期待を抱かずにはいられない。

どれが愛だとか、どれが恋だとか、あるいは憧れだとか、はたまた思慕だとか、そのどれかに自身の感情をあてはめることが重要なのではない。

大切なのはあくまでも、胸に迫る〈切実さ〉がその想いに伴っているのか、ということである。そして私たちは、醒めた頭でそれを見定める必要がある。

胸が震え涙がこぼれたら

伝えなくちゃいけないお前の言葉で

THE BACK HORN「涙がこぼれたら」、2002年

言葉が感情に追いつかなくなると涙になる。情動の揺さぶりに言葉が追い付かなくなることはたしかにありふれたことではあるが、一方でこれは言葉の放棄とも言える。

そう自ら主張しながらも、〈どうにもこうにも言葉にならないから涙になるんだろうが!〉と自分自身にツッコミを全力で入れたい。そうは言っても、やはり感情の言語化には時間をかける価値がある。

なぜならば、感情の集積からしか見えてこない情感が必ずあるからである。自分の感情を整理し、言葉にすることではじめて明かされる心のうちに気付くことができるからである。

ところで「俺が俺である様に胸は鳴る」*2とあるように、THE BACK HORNにとって、胸の高鳴りは「俺が俺である」ための証左にもなっている。

では、その発信源は何だろうか。想像ではあるけれど、〈俺の言葉で胸襟を披き、語りだすこと〉に手がかりがあると見ている。

胸が高鳴るような想いが込み上げてくる主体は、紛れもなくこの〈私〉である。そして〈私〉だからこそ感じ取ることのできる感動が世界には存在していて、〈私〉はそれを〈私〉なりに受け取る。

千差万別の受け取り方があるなかで、ほかの誰でもない〈私〉だからこそ打ち出せる言葉、紡げる想い。それらを愚直にひたむきに言葉という形に残せたら〈私〉であることを、もとい「俺である」ことを、少なくとも自分自身のなかには確実に残せそうに思うのである。

だから、まずは自分だけが満足できる言葉でいい。有益なことばかりがしきりに求められる世界だからこそ、たとえほかの誰かに無益とそしられようとも、自分だけはその言葉や感情を大切にして、できるかぎり掬うことが、自分には必要な段取りだと思う。

自分にかかわることだからこそ、せっかく感じることができた想いや感情を一人置き去りしないためにも、蔑ろにするすべてを無視していい。

諦めてしまった言葉の数々は亡霊のように虚空を彷徨う。供養されることもなく濁された言葉だけが滞留し、ふとある時点で頭をもたげてくる。そうこうするうちに、目を逸らすにも逸らせなくなる。

そうなるくらいなら、できるだけ言葉にしたほうがいい。それももちろん、ほかならぬ「お前の言葉で」である。

取って付けたような言葉を繰り出すことは容易いけれど、そうした言葉の端々に自分は言うまでもなく不在で、結局のところ何も残りはしない。爪痕を残すなどもってのほかである。

誰かの言葉を血肉にした末の表現であってもいい。言葉を道具とするのであれば、自分で見つけた自分なりの言葉で話すことが大切なのだ。〈ごっこ遊び〉から抜け出し、自分の足でこれから先を歩みたいのなら。

いつかみんな大人になってゆく

傷つくことに怯え言い訳をしてる

走れ夜が明けてしまう前に

伝えなくちゃいけないお前の言葉で

THE BACK HORN「涙がこぼれたら」、2002年

「お前の言葉で」伝えなければならないことはどれだけあるだろう。

そういうのはたいてい泥臭くて、暑苦しくて、目も当てられなかったりもするのだけれど、本気で伝えようと試みるところにしか咲くことのない想いが必ず存在していることもたしかである。

感情論みたいで恐縮だが、本当に、感じていることだとすれば、それはきっと伝わる。それがどんな相手であっても。雲をつかむような話ではあるけれど、自分が伝えられる側だったときに、そう感じたことがある。

そうだとすればその逆もしかりで、私が本当に思っていることであれば、たしかな重みを伴ってきっと伝わるはずである。

だから繰り返し伝えたい。THE BACK HORNが心の底から大好きであることを。これこそ俺にとって「俺が俺である様に胸は鳴る」気持ちである。

そういえば、アントロギアツアーをはじめとして2022年は「涙がこぼれたら」を堪能する機会はたくさんあった。野音でも聴けたし。2022年は「涙がこぼれたら」イヤーだったと言ってもいいくらいだった。

様々な節目で聴いていながらも、こうして書いてみて初めて気付く「涙がこぼれたら」の表情には、驚きと感動で目を瞠った。自分でもにわかには信じがたいのだけれど、どうやら、THE BACK HORNを好きになる余地はまだまだあるらしい。

この想いはどこまでいけるのだろう。自分の想像を超える感情に手が付けられない。光に吸い寄せられる羽虫のように、気の赴くまま、どこまでも行けよ。

*1:THE BACK HORN「涙がこぼれたら」、2002年

*2:THE BACK HORN「涙がこぼれたら」、2002年