「蛍」を聴いたのは、真夏に開催した灼熱のマニアックヘブンが記憶に新しい。あれはたしか2019年のことだ。
マイクをフロアに向かって遠く伸ばす山田将司。たしか、2つ目のサビだった。見事なまでに覚束ないフロアの様子を見てやさしく微笑んでいた山田将司。そのシーンがとても印象的で、今でもよく思い出す。
とにかく美しくて、愛に溢れた、やさしいひと時だった。追憶の「蛍」。
さて、「白夜」が終わりを告げると同時に、命の息吹を思わせるような前奏が鳴り響く「蛍」。これは生命の兆しを目の当たりにする瞬間でもある。歌詞に登場する「駆け抜ける日々」*1がごとく駆け抜けていく「蛍」。この歌は、光の粒が飛び出していくように煌めいている。
何よりも目覚ましいのは前奏の絢爛たる佇まいだ。キラキラがいっぱい詰まった宝箱のように胸が高鳴る音たち。飛び交う音たちはとても楽し気で、でもどこか切なさを帯びてもいる。
とかく、両手いっぱいに抱きしめたくなるほどに、「蛍」は前奏からとても愛おしい。
全部名曲であることは前提に据えているとしても、「蛍」を聴くたびに「ほんっとうに、いい曲だよね…」としみじみ感じ入ってしまう。本当に大好きなんですよ…「蛍」…。
THE BACK HORNのなかで好きなイントロを挙げるとすれば、「蛍」はおそらくトップ3に入る。「汚れなき涙」、「蛍」、ああもう3分の2が埋まってしまった。あと一つは何だろうな。また考えてみよう。
何かつらいことがあったときにこの歌に支えてもらった、という記憶は正直に言うとない。明確に思い浮かぶ艱難辛苦を共にしたわけではないけれど、ただただ、「駆け抜ける日々」のなかで、知らず知らずのうちに「蛍」には救われてきたのだろう。何度だって反芻してきた歌詞があるのだから。
奏でられる音もさることながら、歌詞が本当に本当に美しくて、いつもため息をもらしてしまう。
夢中で追いかけた微かなその光
銀河に届きそうな空の下で
松田晋二「蛍」、2008年
夏、満天の星の下を駆け巡る姿が、疾走感を携えながら思い起こされる。豪華絢爛な歌詞ではないけれど、心の機微にふれるような繊細さ、月というよりは星の光、微かななかにもたしかな力強さが宿ることを教えてくれる言葉、そんなふうにして琴線に触れる歌詞を紡ぐのが松田晋二だと思う。
私は松田晋二が表現する世界が一等好きだ。
THE BACK HORNの楽曲は本当にどれも大好きだけれど、このうえなく胸に迫るのは、松田晋二が書いた詩が多い。おそらく私は、松田晋二が書く歌詞が、一番好きだ。
「奇跡」、「声」、「枝」、「汚れなき涙」、「コオロギのバイオリン」、「情景泥棒」、「太陽の花」、「輪郭」、「JOY」、そしてこの「蛍」。枚挙に暇がないので、一旦落ち着こうと思う。
松田晋二の世界はもちろんこれだけに留まりはしない。ただ、はっきりと言えるのは、どれも胸が震える瞬間である、ということだ。
張り裂ける夜の中を俺たちは走り出す
行き場所を探しながら彷徨った蛍のように 今
同上
「張り裂ける夜の中」と聞いて、胸が張り裂けそうな気持ちになる。こんなにも凛として煌めいている曲なのに、見事なまでに切なさを宿している。それはまるでもう戻らない過去を手繰り寄せようと藻掻く姿にも似ている。
届かないものに手を伸ばそうとする。それでも、伸ばそうとする。「空、星、海の夜」でも歌われているとおりに、そうした気持ちを喪うことはあまりにも惜しいことである。
駆け抜ける日々の中に想い出の花が散る
寂しさを抱えたまま別々の旅路を歩く 今
同上
1番目と2番目のサビって、似ているようで結構違う。だからこそうろ覚えになって、覚束なくなって、マイクを差し伸べられても、会場の大半はうにゃうにゃしちゃったのだろう。
と、ここで真夏のマニアックヘブンにまたも想いを馳せてみる。
幸せな記憶というのは、いくらでも思い出になって遺り続けてほしい。何度でも思い出して、愛でまくりたい。
ところで「駆け抜ける日々の中に想い出の花が散る」って、これ以上に美しい想い出の表現があるのかしら。想い出の花を散らしながら別々の旅路に向かう姿を想像するだけでも、心が痛い。
うれしくても悲しくても、美しいものを目の当たりにしたときも、涙が出てくる。「蛍」に触れるときに泣きそうになるのは、その尊さに感応したことで感情が言葉を上回ってしまうからなのだろうな。
情けないことに「チクショウ、大好きだア…」としか言えなくなる。
心にたった一つ消えない景色がある
迷ったその時にはいつでも思い出してくれ
同上
これは自分自身にずっと言い聞かせている言葉でもある。心のなかに留められた消えない景色。いつだって思い出すことができる、消えない景色。
この景色、もとい存在を目印にすれば、たぶん私は私でいることができる。
そうした景色というのは、正直に言ってたった一つではない。消えないで残ってくれた様々な景色が、今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。それはいつぞやのライブで目撃した情景であることが多い。
たった一つ、とは言えないにしても、そのすべてが私を支え、生かしてくれる光景であることはたしかだ。
無論、「蛍」もその一つである。
訥々と、でもとても力強く語られるように歌われる最後。それはまるで己の命を燃やし尽くす蛍さながらでもある。命が燃える瞬間を、ここでもまた私たちは目の当たりにするのだ。
これほどまでにはっきりと告げられる想いを、銘記せずにいられようか。
そして、ここで骨の髄まで響く四弦。これがまた最高にクールで心酔するほどかっこいい。やっぱり岡峰さんのベースが世界で一番大好きだ。
どうしようもなく荒ぶる愛が止まらない…。
こうして、ぽつりぽつりと綴りながら思うのは、自分のなかにこれほどまでに愛と呼べる感情があるのか、という驚きである。
ライブにも行くとはいえ、それは毎日の出来事ではない。原則、「駆け抜ける日々の中」で行っているのは、ただ聴く、という営みだけである。
だが、ただ聴く、ということのなかに、本当の想いを見出したりもするのだ。THE BACK HORNを本当に好きなんだなア、と心の底から滾々と込み上げてくる想いを。
ただ、ただ、好きだと感じる。言うなれば、とにかく温かい気持ちで満たされるような想い、とでも言えばいいだろうか。
自分のなかに、これほどまでに何かを想う気持ちがあることには、我ながらあっと驚く。面映ゆい気持ちだけれど、THE BACK HORNをとにかく慕っている自分のことを、私は存外悪くないと思っている。
何かを心から愛することというのは、自分にYESを言えるようになるための一歩とも言えるかもしれない。
ささやかな一歩ではあるけれど、この先に繋がる一歩であることは紛れもない事実である。夢中になって好きになれるものが一つでもあれば、それだけで自分を救うことができるからだ。
私にも、何かを一心に愛することができる。このことに気付かせてくれたTHE BACK HORNに、全身全霊の感謝を伝えたい。
音楽を聴いて、愛して、そうするうちに自分のことも少しずつ愛せるようになるだなんて、THE BACK HORNの存在は本当に本当に偉大。
それだけ、THE BACK HORNは特別な存在なのだと、いつもいつも突き付けられる。
翻って誰しも経験することかもしれないけれど、自分のことを愛せなくて、どこかものすごく嫌いで、でも完全に否定することもできなくて、屈折していた時期が私にもあった。自分を愛することはもちろん、認めることすら到底無理だと思っていた。
つまりは、マイナス3億からのスタート。そう考えれば、今だってようやく0が見えてきたところにやってこれた程度の歩みに過ぎない。いずれにしても、自己肯定感が皮をかぶって歩いているような人間ではない。
何をどうして多少マシになったのかはあまり憶えていない。年齢的なものもあって、吹っ切れたとも言えそうである。そうは言っても、自分との対話を繰り返し重ねてきたことも事実だ。それこそ一筋縄ではいかない、自分との対話を。
対話と言えるか怪しいところではあるが、そのうちの一つとして確固たるのは、好きな音楽たちを眺めることだった。
聴くのではなく、眺める。どんな音楽が自分のプレイリスト内に存在しているのか、ただぼーっと眺める。
そうやって自分の音楽フォルダを見ていると、こんなに最高な音楽を好きになった自分ってものすごく最高じゃん…と感動すら覚えるのだった。何よりも素晴らしいのは、これらの音楽を世に放ってくれたアーティストの皆様であることをもちろん承知のうえである。
これを読んでいる方がいらっしゃるとは思えないけれど、もしそんな奇特な方が自己肯定感と格闘していて、あまつさえ苦しい思いをしているのであれば、どうか試してみてほしい。
好きなものなら何でもいい。ゲームでも本でも漫画でも、何でもいい。
こんなに素晴らしいものを好きになる感性を持っている自分自身に、どうか目を向けてあげてほしい。
秘伝の技、唐突に脱線するをまたも繰り広げてしまった。閑話休題。
つまるところ、置き場のないクソデカ感情をどうにかして形にしたくて、どこかに供養したくて、こうして今も書きたいことを書きたいだけ書いている。
ただ、好きだというその一言をこれでもかというくらいに押し広げている。
さきほど、マニアックヘブンVol.15のチケットの表示が開始されました。年明け一発目のTHE BACK HORNです。「蛍」は聴けないかな、あの夏に遺したままでも美しいのだけれど。また聴きたいなア。
遠い日の記憶が鮮やかに甦る歌、「蛍」。迷ってばかりいる私は、心に刻まれている消えない景色を何度だって思い出す。そして、その景色を何度だって反芻するのだ。