メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「夕暮れ」|なんとか、生きていく

「ディナー」のあとに耳にする「夕暮れ」は一層の浄化作用を伴う。「純粋になりたかった」と過去形で語られるこの曲の冒頭からは危なげなくらいの純粋さを感じてしまうし、そこには繊細さも傷つきやすさも息衝いている。

何よりも、雪の結晶みたいに透明な声が、儚げながらも真っ直ぐに響くところが、より一層胸を抉ってくる。透き通るようなきめ細やかな声。この一糸纏わぬ声こそ、胸を抉る鋭利な切先でもあるのだろう。

リアレンジ版と比べると、原曲の「夕暮れ」は、サイダーみたいに爽やかで、ツバメが飛ぶように軽快で、ここで鳴らされる音たちからは、やるせなさも、悲しさも、顔をしかめるような悔しさも微塵も感じない。

だから、聴いていると揺さぶられるのだろう。軽やかな音とは似ても似つかない感情が綻んでいるこの歌に。

リアレンジ版の「夕暮れ」は、まさしく腰を据えてゆったりと聴きたい曲である。「夕暮れ」が始まると同時に耳に入ってくるドラムの音は、ゆっくりとした歩調にもなぞらえることができそうだ。

この部分がほんの少しだけ、覚束なそうにも聞こえるのは、両手でまんべんなく叩いているわけではないことを知ったからかもしれない。直近のライブを見ていて、〈この部分は右手だけで叩いているのか〉と感じたことが印象に残っている。

ドラムは四肢でまんべんなく叩く楽器、なんて荒唐無稽なことを抱くくらいには楽器演奏に疎いから、なんだかその姿が意外に思えて、新鮮に感じたのである。

いずれにしても、オールスタンディングだと松田さんがよく見えないことが多い。それもあって、ゆったり構えてじっくり見るライブはやっぱり隅々まで見渡せるので、今更ながらの〈そうだったのか!〉があって楽しい。

ところで「夕暮れ」は冬の歌だから、正反対の夏にいると冬の冷たい空気がいつも以上に恋しく思う。冬の空気はほかの季節のそれと比べてとても澄んでいる。空は高くて、空気は冷たくて、肺が軋むような思いに駆られる。

太陽の温度を名残惜しむように、遠く高いところにある頭上で橙と青が交わる。この空とは、冬にしか出会えない。「夕暮れ」のなかでふれられる「天国」とは、絶妙な色合いによって描き出される美しい時間のことなのかもしれない。

「純粋になりたかった」*1という気持ちとは裏腹に、「嘘でほっとして」*2しまう自分自身の存在。やるせなさと諦めが、あたたかくてやわらかな音に包まれながら紡がれていく。「夕暮れ」は、本当にやさしい歌だと思う。

とはいえ、単にやさしいだけではないのがTHE BACK HORNが創る歌だ。歌詞に目を向ければ、悲しみや切なさというような、やさしさとは相反する事象があちらこちらに散りばめられている。

悲しい歌を悲しいままに歌わず、やさしさをぶち込んでくるところが、より一層の切なさを掻き立てる。たとえば「夕暮れ」は、やさしいメロディーに乗せられることで、得も言われぬやるせなさが一段と際立っている。なんだか、もどかしい気持ちがこみ上げてくる。

光が強ければ強いほど影が色濃く強調されるように、「夕暮れ」のやさしさは、ささくれ立つ心を撫でもするが、一方では、物悲しさだとか行き場のない感情を際立たせる役目も果たしている。

行き場のない感情や、得も言われぬやるせなさ。それらがやさしさと綯い交ぜになって、ひいては悔し涙になる。でも、ここで、くずおれてしまうわけではない。「夕暮れ」とは、そんな勁さが中核に据えられた歌である。

「夕暮れ」という歌に秘められている〈なんとか生きていくことができるだけの精神的な勁さ〉について考えてみたくなった。

それはまるで、〈泣きながらも、ご飯を食べる〉ということと似ている気がする。泣きながら、ご飯を食べたことがあるひとは、きっと大丈夫。敬愛する表現者が、そう言っていた。

その心は、と言うと、おそらく絶望に打ちのめされても、生命活動を維持できるだけの精神力が備わっているから、ということなのだろう。そういうときでも、生命維持に舵を切ることができるのは、勁さの表れにほかならない。

悲しみに明け暮れても、胸がチクリと痛むような思いがしても、溜飲が下がらずとも、やるせなさをやるせないままに抱える。胸がいたたまれないほどに軋もうとも飯を喰らうように、たぶん、なんとか、生きていける芯の強さを感じる歌。それが私が感じる「夕暮れ」である。

穏やかな曲調を纏いながらも、そこには研ぎ澄まされたしなやかさが生きている。「夕暮れ」にはなんとも気丈な精神が秘められている。

そう言っておきながらも、「夕暮れ」は、もちろん気丈なだけの歌ではない。血が通った人間が思い通りにいかずにじたばたするさまも、ありのままに描き出されている。

綺麗になんか生きれねぇさと
唾を吐いて道に転げた
会いたくなって切なくなって
情けなくて泣けてきた 夕暮れ
THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

「唾を吐いて道に転げた」って、結構な悪態をついているし、有り体に言えば、清々しいほどのダメっぷりである。この、どうしようもなくって、じたばたする感じが、堪らなく好い。じたばたしている本人にとってはそれどころじゃないだろうけれど。

涼しい顔をして生きているんじゃなくって、ままならさを抱えながら生きている描写があまりにも鮮やかだから、想いを乗せて歌を届ける彼らも人の子なんだな、と、おこがましくも親近感を覚えてしまう。

どれだけ生きても、私はまだ「誰かの為に生きてく」*3ことが解らないでいる。自分のために生きているのかさえも、実際のところ訝しい。生き続けていたら、少しは分別がつくのだろうか。まずは、ほかでもない自分のために生きていくとしよう。

*1:THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

*2:THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

*3:THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年