『心臓オーケストラ』の10番目、もとい最後を飾る曲である「ぬくもり歌」。10曲をめぐるアルバムが、この曲とともに幕を下ろす。10曲と耳にすれば、憚らずに言うと物足りなさを覚えそうでもある。が、『心臓オーケストラ』は、物足りなさどころか、痛みを携えた充足をも感じさせる不思議な作品であることを痛感する。
「ぬくもり歌」を聴いていて思ったのは、子守歌のようにやさしいのに、まどろみのなかからふっと我に返ったかのように覚醒するさまがあまりにも目覚ましく、とても鮮やかな曲だということである。まるで、深く目覚めたような歌であると、形容できるかもしれない。
どう考えたって、まどろみの世界のなかでたゆたうほうが、きっと心地よいはずなのに、そこから抜け出して、何なら駆け出すくらいに、その心地よさを払いのける。そうやって、おそらく平坦ならぬ現実を選ぶ一手は、目がくらむような眩しさを放つとともに、同時に痛みに震えてもいる。
なぜか。
それは、居心地の良さを手放してまでも、「行くべきところ」*1に向かう姿が描かれているからである。何かを手に入れるということは、何かを手放す必要があるってことが、ここではよく表れている。そんな真理が、素知らぬ顔で、「ぬくもり歌」のなかを泳いでいる。
だから、苦しいと思うのかもしれない。たとえ、そこが、居心地の良い場所だったとしても、ーーーこの歌のなかでは、眠りという安心感とともに描写されているーーー手に入れたいものを手に入れるためには、たとえそれが心地よさであっても、お別れをしなければならないときがあることを、それとなく突きつけられる。
まどろみを手放す代わりに手に入れたのは、「行くべきところ」に向かうための切符である。このとき、足元を照らしているのは、紛れもなく「失くせない想い」*2であろう。
行くあてがないから、眠ってしまおう、そんなふうに、一度は現実から目を背けてみもするけれど、核に抱いているのは、「失くせない想い」であることが、どうしようもなく自分を自分たらしめているようにも取れる。
それと同時に思うのは、「失くせない想い」を灯にして「行くべきところ」に向かうことができるのは、逃避とも言えるまどろみがあったからではないか、ということである。
まどろみは手放すべきものであったにもかかわらず、そのまどろみこそ必要である、というのはどういうことか。説明を加えてみる。
たとえば、どこかに行くための切符を入手するために、私たちはお金を使う。言ってみれば、これはお金を手放す、ということでもある。私は、ここでいうお金の役目を、「ぬくもり歌」ではまどろみというものが担っているのではないか、と感じている。
押し広げてみると、まどろみを体験したからこそ、ある地点においてまどろみを手放すことができるようになり、最終的に目的地に向かうことができるようになる、という営みが、たしかにあるのではないか、ということである。
そういう意味で、たとえ手放すものだったとしても、まどろみは、向かう場所に辿り着く過程にあって必要なものではないかと、感じたわけである。
本当は行くべきところがあって、やらなくちゃいけないこともあって、それでも、逃避したい気持ちもある。これは、日常で見飽きるほど出くわす情景だ。
たしかに、一瞬のまどろみはまやかしに等しいかもしれない。しかし、そうした逃避行があるからこそ向き合える事象があるというのも、事実ではないかと思う。
それは、決して甘えではなく、自分と向き合うにあって必要な過程の一つであると、思わずにはいられない。
一時的な、あるいは中長期的な逃避行、もとい自分を守るためのコロニー。仮初でもいいから呼吸ができる場所の確保、言うなればアサイラム。そういう場所、言い換えれば、まどろみそのもの、あるいは覚束ない時間。
この先を進むためには、これらがどうしても必要な要素であることを真っ直ぐに肯定するようなぬくもりをこの歌からは感じる。自分のペースで向かいたいところに向かえばいいんじゃないかって、そう言ってもらえている気がするのだ。
「行くべきところ」に向かうためには、ときには、逃避も休息も必要なのだということを、自分に対しても許可できそうに思えてくる。そうした意味でも、「ぬくもり歌」は、たしかなぬくもりが宿っている歌であると思えてならない。
遠い記憶 胎児のよう
ぬくもりに包まれて
THE BACK HORN「ぬくもり歌」、2002年
遠吠えのように響き渡る歌声が好い。眠りの彼方に安寧を手に入れたような心地よさがある。大きなうねりはクジラのように悠然としているようにも聞こえるが、「ぬくもり歌」の内容と照らし合わせてみると、あまりにも相反する様相を見ることになるから、このうえない苛烈な気持ちにふれもするし、なんとも切ない思いを抱きもする。
なにより、この状態から抜け出せるだけの胆力があまりにも凄まじい。目を覚まさなくちゃって、ストイックの権化を感じるし、さすが、THE BACK HORNだなあと、胸が痛むと同時に、尊敬の念を禁じ得ない。
子守歌のようにやさしくて、たしかなぬくもりが宿っているけれど、こんなに芯がとおった歌なんだな。ぬくもり歌って。柔和で、温かみがあって、穏やかで、でも、梃子でも動かない芯のとおった覚悟が、「ぬくもり歌」から透けて見える。
ところで、「行くべきところがある」って、一心不乱に駆け出すようにも見える描写があるからこそ、次のアルバムにつながるたしかな架け橋の存在を確信したりもする。これからの未来がたしかに存在していることを、言うなれば彼らの続きを、予兆させるような躍動に、たしかにふれたと実感できるのである。
THE BACK HORNの最後の曲は、とりわけ力が込められていると思う。たしかにほかの曲だって、精魂込められた命にほかならないけれど、次に向かおうとするための深い思い入れが最後の曲たちにはより一層込められていて、これから先を見据える一歩としての役目を果たしていると、思えてならないのだ。
まさしく、終わりは始まりだと確信させる、命の発露が、最後の曲にこそ見て取れるということを、私は繰り返し、主張したい。
*1:THE BACK HORN「ぬくもり歌」、2002年
*2:THE BACK HORN「ぬくもり歌」、2002年