喉が引き裂かれそうになるまで、一心に、幸せであることを希ってくれる人たちがここにいる。これ以上ない幸せが、「泣いている人」という歌には詰まっている。壮大な音のなかにすっくと佇む祈り、希い、慈愛。この一曲のなかには、幸福が漲っている。大仰に聞こえるかもしれないけれど、誇張なくそう思う。
『甦る陽』の最後を飾る歌である「泣いている人」。
この歌は「コオロギのバイオリン」を除けば、THE BACK HORNのなかで最も長い楽曲でもある。多くは語らない歌詞に対して、7分以上にも及ぶ時間。「泣いている人」のなかで流れる時間は、とてもやさしくて、あたたかい。
自分の言葉を、時間をかけながらじっくり探し、そこからぽつりぽつりと紡ぎだされる歌詞が印象的である。「泣いている人」の歌詞は、まさに〈紡ぎだす〉という表現がしっくりくるような言葉たちの集積だ。心の底にある言葉を、一つひとつ大切に拾い集めるようにして訥々と語られるから、聴く者もどっしりとその言葉を受け止め、じっくり噛み砕くことができる。
静かに語られる言葉が秘める圧倒的な力の存在に息をのむ。「泣いている人」という歌は、何かともみくちゃにされる日々を生きる私たちを労うようにそっと隣にいてくれるような存在である。
街の片隅で泣いている人
誰に泣かされたんだろう
自分に腹が立ったの?
THE BACK HORN「泣いている人」、2000年
誰かに泣かされたことだけでなく、自責による涙についても言及されているところは、心の深さをも表しているようでもある。
自分の意志にそぐわずに泣いてしまうこともある。たとえば情動が疼くと、たとえこれっぽっちも悲しくなくても、憤りを感じておらずとも、ふと涙が出てくることがある。
何かを一生懸命に伝えようとするとき、いっぱいいっぱいになって、涙がこみあげてくるのだ。四六時中そうなるわけではないけれど、言葉にしきれなかった感情が涙になる現象にはたびたび頭を抱える。
なぜ泣いてしまうのか、今はそれを問うても仕方がない。今は「泣いている人」という曲のなかで編まれる言葉のぬくもりに身を委ねたい。
どうかあなたが幸せでありますように
どうか明日は幸せでありますように
同上
この曲のなかで、止むことなく繰り返しささげられる祈りは、はじめのうちと終盤とではまったく異なった風貌をしている。これらには強弱の差こそあれ、どちらもたしかに胸に灯る光であることには相違ない。
最初は、ぽつりと光る宵の明星さながらに密やかに語り出される。その様相は穏やかすぎるくらいだけれど、たしかな勁さを感じ取るには十分すぎる光である。
「泣いている人」を聴いていて印象的なのは、歌に生かされているのはお互い様である、ということである。私たちは息を吸うようにして音楽を聴き、言葉を食み、何はなくとも救われている。愛してやまない音楽たちを繰り返し聴くことで、明日を生き伸びるために虎視眈々と英気を養うのである。
聴く側はいつだってものすごい力をもらっているから、救われるのも、生かされるのも、聴く側だけなのだと思いがちなのだが、もしかすると世界はもっとその先にも広がっているのかもしれない。
愛はもっと広く伝播していて、聴き手がなんらかの力になれているというのも、あながち幻想ではないのかもしれない。
だとすれば、これ以上にうれしいことはない。
でも、そんなにうれしいことがあっていいのか、とうろたえてしまいもする。
だって、THE BACK HORNから、音楽を通じてこんなにも力をもらっているのに、さらには大好きな人たちに何かを返せているなんて、そんなに幸せすぎる体験をしてもいいのだろうか。あまりにも烏滸がましくないか。
これでは自己肯定感が爆上がりどころかカンストしてしまう。
音楽って、ライブって、本当に、とんでもなくすごい。あまりの壮大さに、一瞬思考が停止する。
都合がよい解釈だけれど、そのひとかけらになれているのだとすれば本望だ。私がいようといまいと世界は規則正しく廻るけれど、今はそちらに目を向けるよりも、エネルギーの欠片になれていることを喜びたい。烏滸がましいけれど、図らずもカンストした自己肯定感を携えているので、そんなふうに考えてみたい。
ライブという空間で交換した熱量は、これから先を生きていく糧になる。また次に会うまでの日々を泳ぎ切るための、大切な大切な養分になる。そして、いつしか歌は己の血肉になっていく。
音楽とともに生きる私たちは、きっとその繰り返しで冗談抜きに日々を生きていくことができている。
「じゃあまたおやすみ
身体には気をつけて」
同上
歌詞の一部だとしても、こんな言葉を投げかけられたら、どんな顔をしたらいいだろう。喜びのあまり、情緒がバグる。自分のために投げかけられた言葉でないことは分かっていようとも、こういう言葉によって心はちゃんと呼吸ができるようになる。
そして、ここから終盤に向かうまでの、余白がたまらなく愛おしい。わずか数秒の間に神経を集中させて、私たちは大団円を待ち構える。
光の雨が降り注ぐとしたら、きっと「泣いている人」の祈りがそれに最も近いにちがいない。
腹の底から喉が枯れるまで「どうかあなたが幸せでありますように」と念を押すように希ってくれるひとが、ここに存在している。
今日が幸せだとか、明日が幸せだとか、その匙加減はどうしたって個人に委ねられてしまうから判断基準はひどく曖昧だ。現金な話だけれど、明日がどっちに転ぶかなんて、正直誰にも分からない。
が、たしかであるのは、幸せを祈ってくれる他者が存在しているという事実こそが、幸せである、ということである。今、この瞬間にも、幸せを祈ってくれるひとたちが存在している事実があるだけで、このうえなく幸せなのだと、私は繰り返し主張したい。
両手いっぱいの花束のような祈り、それはきっと幸福だ。多幸感が溢れだす歌が存在している世界を、もう少し愛してもいいのかもしれない。思わぬところで出くわす愛がある。そんなふうに、少しだけ、期待してもいいかもしれない。