メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「扉」|扉を開いた先にあるもの

「扉」を聴いたとき、心臓の鼓動をふと感じた。心がときめく、ということ以上に、ドクドクと脈打つ心臓そのものを、命の息吹を、つまり脈動を、この歌から感じ取ったのである。穏やかな曲調とは裏腹に「扉」という歌から想起されるのは、静かなる闘志、命との対話、研ぎ澄まされた刃の切先のようにギラリと光る、そんな情景である。

『ヘッドフォンチルドレン』という珠玉の作品の幕開けとなるこの曲は、まさしくそれに匹敵する凄まじい熱を帯び、青い炎さながら煌々とエネルギーを放っている。『ヘッドフォンチルドレン』という世界に入り込むのに、この「扉」という曲は十分すぎるくらいの起爆剤になる。

『ヘッドフォンチルドレン』はTHE BACK HORNの4枚目のフルアルバムである。はばからずに言えば、いわゆるベストアルバムはこれだ!と主張したいくらいに、すべての曲が主役であるように思えてならない。いや、でも、いっそのこと、主役はない、と言った方がより正確かもしれない。

各々がそれぞれの人生を歩んでいるように、このアルバムの楽曲たちもそれぞれの曲が頭角を現しながら存在している。熱量も、勢いも、留まることを知らない一枚。それが私にとっての『ヘッドフォンチルドレン』である。

余談ではあるが、個人的にTHE BACK HORNをはじめて聴く人には、ベスト盤よりも先に『ヘッドフォンチルドレン』を勧めたい。なぜならば、このアルバムでは、ほとばしる命をありありと体感できるからだ。

珠玉の作品だと、何百回、何千回言おうと一聴するには及ばない。だから、ただ、『ヘッドフォンチルドレン』をとにかく聴いてほしい。そこで繰り広げられる命の躍動を堪能してほしい。

さて、照準を再び「扉」に戻そう。冒頭でもふれたとおり、名作の火蓋を切るのは「扉」という鼓動のような歌である。

静かに始まるその様相からは想像つかない熱量がこの歌に込められていることを噛み締めては心を奪われる。マグマが勢いよく流れるように、胸の内に秘められたたぎる思いがこみ上げてくる…。「扉」とは、そんな瞬間に立ち会うような歌だ。

ふんわりと包み込むような歌のなかにはどっしりと重たい信念のようなものがあって、それに触れたら吹き飛ばされそうなくらいに、嵐のような猛威をふるってさえいる。

こんなに美しいのに、なぜヒリヒリした痛みを感じるのだろう。

「扉」という歌では、真っ直ぐな気持ちが礫さながら降り注ぐ。切実な思いの結晶が心を穿つ。これほどまでに胸に迫る切実さとは、いったい何だろう。歌に直接触れることはできないのに、まるで〈何かを掴んだ〉ような心境に至るのはなぜだろう。

ここで感じた痛みと手応えについて、「扉」という歌を深掘りしながら紐解いてみたい。

「扉」のなかで切実な重さを伴って響くのは、「誰の為に生きているのだろう?」*1と真っ直ぐに投げかけられる問いである。

この言葉が生々しい感覚を伴って突き刺さるのは、私自身にとっても意識に上がってくる重さを持った言葉だと同時に、ほかならないTHE BACK HORNが、もっと言えばこれを作詞した山田将司が、こうした思いを抱えていたことを知るからでもある。

たしかにこの言葉はほかでもない自分自身が共鳴する言葉であるが、その反面、歌い手が放つ本気の思いとしても立ち上がっている。だからこそこの言葉を聞いたとき、聴く者は感銘を受け、心の一端を垣間見る営みが同時に発生するといってもいい。

見ないふりをして、触れずにいた核心を突かれるような痛みを覚える。が、そういう核心を包み隠さずにさらけ出してくれたことに救われもしている。まさしく痛みが呼応するような体験を重ねている。

このとき、軸になっているのはこの痛みだ。見過ごせないこの感覚こそが、切実にこみ上げてくる感情の正体と見て間違いない。

「扉」を聴いたときに感じた手応えについては、〈痛み〉という言葉を糸口にしながら紐解くことができるかもしれない。

痛みが呼応した先にあるのは、一糸まとわぬ思いの数々だ。本当は奥底に隠しておきたいやわい部分をさらけ出すことで、ようやく共鳴するにいたる魂が、ここでは描かれている。共鳴、それはときには痛みを伴う営為であるらしい。

痛みの水脈を辿る。すると見えてくるのは、未来に向かって投じた一石の痕跡である。とくに心を射止めるのは、「何ができる?この身を捧げて」*2と投げかけられた疑問である。

この疑問の先には、差し込む光さながらの決意が自ずと見えてくるような思いがする。しかし差し込む光の正体は、「扉」のなかで表されてはいない。こう思うに至ったのは、現在のTHE BACK HORNを折に触れて見聞きしているからかもしれない。

光の正体について、あくまでも一個人の解釈に過ぎないが、思ったことを書いてみたいと思う。それは、今のTHE BACK HORNや、これまでの彼らの軌跡にふれて思ったことでもある。

「この身を捧げて」できること。それは、おそらく、人生を賭けて歌う、ということだ。

こうした印象を抱くにあたって、明確なきっかけがあったわけではない。ただ、彼らが彼らの音楽に向かっていく姿勢に幾度となくふれてきたことで、自ずと腑に落ちたことである。

私が抱いた感覚の真偽のほどはさておいても、まごうことなき事実なのは、「扉」を世に放ったときから今に至るまで、THE BACK HORNは変わらずに魂の歌を届けてくれている、ということだ。それはきっと、これからも変わることのない本質であるにちがいない、と、私は願ってやまない。

〈魂の歌を、人生を賭けて歌う〉

期待も踏まえた内容ではあるが、改めて、この視点から「扉」という歌を見てみる。すると、この歌は、自分たちにできることを真剣に見つめなおすような、覚悟と闘志に燃えるような歌として立ち上がってくるのだ。

このことを踏まえると、「扉」という歌は、契機として捉えることができるかもしれない。すなわち「扉」は、『ヘッドフォンチルドレン』という作品を始めるだけではなく、彼らの決意を改めて表明するような役目をも果たしているのだ。まさしく、新たな世界を開くための「扉」として。

鼓動とともに瑞々しい命が躍り出す。込み上げてくる切なさや、行き場がない感情をどうにか言葉にして放つさまは、さながら悲鳴のようでもある。

「扉」という歌を聴く。そこはかとなく命に触れたような思いがする。それもそのはずだ。真剣なまなざしに裏打ちされるのは、生きていくことを頑なに選んだ姿にほかならないのだから。

*1:山田将司「扉」、2004年

*2:山田将司「扉」、2004年

THE BACK HORN「ぬくもり歌」|温みを越えて深く目覚める歌

『心臓オーケストラ』の10番目、もとい最後を飾る曲である「ぬくもり歌」。10曲をめぐるアルバムが、この曲とともに幕を下ろす。10曲と耳にすれば、憚らずに言うと物足りなさを覚えそうでもある。が、『心臓オーケストラ』は、物足りなさどころか、痛みを携えた充足をも感じさせる不思議な作品であることを痛感する。

「ぬくもり歌」を聴いていて思ったのは、子守歌のようにやさしいのに、まどろみのなかからふっと我に返ったかのように覚醒するさまがあまりにも目覚ましく、とても鮮やかな曲だということである。まるで、深く目覚めたような歌であると、形容できるかもしれない。

どう考えたって、まどろみの世界のなかでたゆたうほうが、きっと心地よいはずなのに、そこから抜け出して、何なら駆け出すくらいに、その心地よさを払いのける。そうやって、おそらく平坦ならぬ現実を選ぶ一手は、目がくらむような眩しさを放つとともに、同時に痛みに震えてもいる。

なぜか。

それは、居心地の良さを手放してまでも、「行くべきところ」*1に向かう姿が描かれているからである。何かを手に入れるということは、何かを手放す必要があるってことが、ここではよく表れている。そんな真理が、素知らぬ顔で、「ぬくもり歌」のなかを泳いでいる。

だから、苦しいと思うのかもしれない。たとえ、そこが、居心地の良い場所だったとしても、ーーーこの歌のなかでは、眠りという安心感とともに描写されているーーー手に入れたいものを手に入れるためには、たとえそれが心地よさであっても、お別れをしなければならないときがあることを、それとなく突きつけられる。

まどろみを手放す代わりに手に入れたのは、「行くべきところ」に向かうための切符である。このとき、足元を照らしているのは、紛れもなく「失くせない想い」*2であろう。

行くあてがないから、眠ってしまおう、そんなふうに、一度は現実から目を背けてみもするけれど、核に抱いているのは、「失くせない想い」であることが、どうしようもなく自分を自分たらしめているようにも取れる。

それと同時に思うのは、「失くせない想い」を灯にして「行くべきところ」に向かうことができるのは、逃避とも言えるまどろみがあったからではないか、ということである。

まどろみは手放すべきものであったにもかかわらず、そのまどろみこそ必要である、というのはどういうことか。説明を加えてみる。

たとえば、どこかに行くための切符を入手するために、私たちはお金を使う。言ってみれば、これはお金を手放す、ということでもある。私は、ここでいうお金の役目を、「ぬくもり歌」ではまどろみというものが担っているのではないか、と感じている。

押し広げてみると、まどろみを体験したからこそ、ある地点においてまどろみを手放すことができるようになり、最終的に目的地に向かうことができるようになる、という営みが、たしかにあるのではないか、ということである。

そういう意味で、たとえ手放すものだったとしても、まどろみは、向かう場所に辿り着く過程にあって必要なものではないかと、感じたわけである。

本当は行くべきところがあって、やらなくちゃいけないこともあって、それでも、逃避したい気持ちもある。これは、日常で見飽きるほど出くわす情景だ。

たしかに、一瞬のまどろみはまやかしに等しいかもしれない。しかし、そうした逃避行があるからこそ向き合える事象があるというのも、事実ではないかと思う。

それは、決して甘えではなく、自分と向き合うにあって必要な過程の一つであると、思わずにはいられない。

一時的な、あるいは中長期的な逃避行、もとい自分を守るためのコロニー。仮初でもいいから呼吸ができる場所の確保、言うなればアサイラム。そういう場所、言い換えれば、まどろみそのもの、あるいは覚束ない時間。

この先を進むためには、これらがどうしても必要な要素であることを真っ直ぐに肯定するようなぬくもりをこの歌からは感じる。自分のペースで向かいたいところに向かえばいいんじゃないかって、そう言ってもらえている気がするのだ。

「行くべきところ」に向かうためには、ときには、逃避も休息も必要なのだということを、自分に対しても許可できそうに思えてくる。そうした意味でも、「ぬくもり歌」は、たしかなぬくもりが宿っている歌であると思えてならない。

遠い記憶 胎児のよう
ぬくもりに包まれて
THE BACK HORN「ぬくもり歌」、2002年

遠吠えのように響き渡る歌声が好い。眠りの彼方に安寧を手に入れたような心地よさがある。大きなうねりはクジラのように悠然としているようにも聞こえるが、「ぬくもり歌」の内容と照らし合わせてみると、あまりにも相反する様相を見ることになるから、このうえない苛烈な気持ちにふれもするし、なんとも切ない思いを抱きもする。

なにより、この状態から抜け出せるだけの胆力があまりにも凄まじい。目を覚まさなくちゃって、ストイックの権化を感じるし、さすが、THE BACK HORNだなあと、胸が痛むと同時に、尊敬の念を禁じ得ない。

子守歌のようにやさしくて、たしかなぬくもりが宿っているけれど、こんなに芯がとおった歌なんだな。ぬくもり歌って。柔和で、温かみがあって、穏やかで、でも、梃子でも動かない芯のとおった覚悟が、「ぬくもり歌」から透けて見える。

ところで、「行くべきところがある」って、一心不乱に駆け出すようにも見える描写があるからこそ、次のアルバムにつながるたしかな架け橋の存在を確信したりもする。これからの未来がたしかに存在していることを、言うなれば彼らの続きを、予兆させるような躍動に、たしかにふれたと実感できるのである。

THE BACK HORNの最後の曲は、とりわけ力が込められていると思う。たしかにほかの曲だって、精魂込められた命にほかならないけれど、次に向かおうとするための深い思い入れが最後の曲たちにはより一層込められていて、これから先を見据える一歩としての役目を果たしていると、思えてならないのだ。

まさしく、終わりは始まりだと確信させる、命の発露が、最後の曲にこそ見て取れるということを、私は繰り返し、主張したい。

*1:THE BACK HORN「ぬくもり歌」、2002年

*2:THE BACK HORN「ぬくもり歌」、2002年

THE BACK HORN「世界樹の下で」|痛みとの共存

世界樹の下で」のMVを見る。とても暗い表情をしている3人が頭から離れない。それから、そうした表情からは想像できない情感の発露からも、目が離せない。色々な意味でこの曲に釘付けになってしまうのは、暗澹たる表情を浮かべる彼らを遠くの画面に見据えるからか、はたまた、こみ上げる激情に呑まれそうになるからか。

何はともあれ、この歌に、途轍もない引力で惹きつけられている。たしかなのは、「世界樹の下で」という歌が、正鵠を射るようにしてこの心を穿ったということである。

今にも泣き出しそうだ、と思ったのは、この曲に対しての印象であると同時に、聴き手である自分も同様であることに気付く。

痛々しいまでに狂おしく、心の底から愛おしい。クソデカ感情なしに、「世界樹の下で」を聴くことはできない。

遅ればせながら、「世界樹の下で」は、THE BACK HORNの3枚目のシングルであり、『BEST THE BACK HORN』にも収録されている曲でもある。

名実ともに名曲中の名曲だと誇示したい気持ちが高らかにあるが、THE BACK HORNの楽曲は、ご存知のとおりどれも名曲中の名曲である。オタクは大抵こう言う。だから、名曲だとつよく主張したい一方で、それだけでは何も語ることができていないという苦悩にぶち当たる。

だから懲りずに綴ってみたい。「世界樹の下で」という曲について。

押さえつけられたかのように胸が詰まるこの歌は、主題と言葉が融合して腫れ上がり、今にも破裂しそうである。重いテーマが重厚な音と一糸まとわぬ言葉とともにぶつけられるこの曲は、無防備な心で受け止めるにはあまりにも威力がありすぎる。が、同時に思うのは、それこそ「世界樹の下で」という曲の核心である、ということだ。

前曲である「野生の太陽」が終わるさまは、まさしく収束という言葉に等しい。音が吸い込まれていくことで、その収束は一層際立っているように感じる。最後の最後まで、「野生の太陽」の惹きつける力は、衰えることを知らない。

この状態で次の曲、すなわち「世界樹の下で」が始まるのだから、なおのこと、はじめからこの前奏に聞き入ることになるのは必至だろう。無防備のまま、もっと言えば心を開いた状態で、「世界樹の下で」を一心に聴くことになるのだ。

ただでさえ心を揺さぶるこの曲。武装解除した状態で聴く「世界樹の下で」は、もはや危険ですらある。

事あるごとに感じているのは、「世界樹の下で」のなかに溶け込む純粋さが、濃度を増すことによって勁さだけでなく、儚さをも醸成している、ということである。これがどういうことなのか、もう少し、説明させてほしい。

世界樹の下で」を聴いていて感じずにはいられなかったのは、つよい方が、脆いってことがありえる、ということだ。たとえば、乾麺はゆでたあとの麺よりも折れやすい。ゆでたあとの麺は千切れやすいけど、折れることはない。薄いガラスも、薄い氷も、やっぱり割れやすい。

とはいえ、この組み合わせが成り立つのは、薄さや細さ、という一般的に脆さの要素が、硬さという要素とセットになっているときに限られる。直径1メートルの鉄の棒はどうしたって折れない。明らかに堅固なものは外す必要がある。

ここで照準を合わせたいのは、あくまでも儚さを孕んだ勁さのことであり、直径1メートルの鉄のように見るからに強靭なものではない。「世界樹の下で」における〈勁さ〉は、どこか危うげな佇まいをしていて、強靭という言葉とはかけ離れたところに位置している。

では、この〈勁さ〉とは何か。

世界樹の下で」のなかで紡ぎ出されるのは、まるで拳を握りしめ、奥歯をかみしめているような汲々とした状態のことではないだろうか。笑おうと思ってもきっと笑えない胸の奥で、わずかな震動でコップから水が零れ落ちてしまいそうなくらいに張り詰めた心が、この曲のなかで痛々しいまでに描き出されていると思えてならない。

押し広げてみれば、これは〈勁さ〉というよりもむしろ、しゃちこばった心、どうにもほぐれず拳を握りしめた心と言った方が近しい表現かもしれない。とはいえ、そうした状態で紡がれる歌を〈勁さ〉の表れと思う心を止められるわけもない。

切実さ、ギリギリのところで保たれている均衡、溢れ出す感情、願い、希望、痛み。それはまるで、今にも泣き出しそうな祈り。混ぜようと思っても混ざりきらない心がギリギリと上がる悲鳴こそ「世界樹の下で」という歌。

その悲鳴を聴くことになるから、「世界樹の下で」を聴くと、切ない気持ちで胸がいっぱいになるのかもしれない。

作られた自由のなかを、それとは知らずに泳ぎ、生きながらえ、殺し合い、人を愛し、罪を犯す。これが、この曲のなかだけで繰り広げられる事柄ではないことに、改めて戦慄を覚える。

今、生きているこの世界が「作られた自由」*1であるかは知りえることではないけれど、「星がいつかは命を貫き みんな幸せな星座になれたら」*2という祈りが心から放たれた言葉であることを思えば、この祈りをこそ、宝物みたいに心の底にしまっておきたい。

思いが込められた歌を聴いたときに、心が動く。この情動が、「本当」の想いなるものだと自負している。

何が本当で、どれが偽物で、それを明確に嗅ぎ分けられているかはさておき、いずれにしても、THE BACK HORNを聴いているときは、好きな音楽を聴いているときは、「本当」の気持ちが自分のなかにちゃんとあって、心が正常に作動することを確信できる。

歌をある種の呼びかけだと見立ててみよう。そのとき反応する心の動きとは、すなわちたしかな応答であり、共鳴であり、共振であり、呼応である。

世界樹の下で」という歌を聴いて心が動いたという事実、それはまだ大丈夫だと実感できる証左でもある。

*1:THE BACK HORN世界樹の下で」、2002年

*2:THE BACK HORN世界樹の下で」、2002年

THE BACK HORN「野生の太陽」|既視感になった言葉

「裸足の夜明け」というライブについては、今後もおそらくことあるごとに言及するだろう。繰り返しにはなるが、「裸足の夜明け」は、私がTHE BACK HORNを初めて見たライブである。

私が「野生の太陽」を初めて聴いたのは「裸足の夜明け」だった。だから、あのときの私にとって「野生の太陽」は、名前を知らない楽曲にほかならなかった。16歳の私は、あの場で繰り広げられる光景に釘付けになって、思わず棒立ちになったまま「野生の太陽」を食い入るように見つめていた。

1曲目「覚醒」、続く2曲目「野生の太陽」。この2つの曲順と、「野生の太陽」が始まったときに会場が沸き立ったことは、今でも鮮明な残像として残っている。

ひょっとしたら「野生の太陽」をあらかじめ知っていたらもっと楽しかったのかもしれない。それでも、知らなかったからこそ血走った衝撃は、知らなかったときにしか味わえない一度きりの感動にほかならないから、それはそれで贅沢な経験をしたと思う。

知らない曲を知る楽しみ。今思えば、初めてのライブにしてその至高を味わい、その喜びを体感していたとも言える。

ところで、好きなバンドの知らない曲をライブで聴くというのは、思っている以上に印象に残る経験である。ちなみにここで言う〈知らない曲〉とは〈新曲〉のことではない。新曲もたしかに〈知らない曲〉には違いないが、ここでは、〈すでに世に放たれていながらも、ふれてこなかった曲〉を〈知らない曲〉と表現したい。

〈知らない曲だ!〉と、知らないものに対して抱く好奇心は思っている以上に強烈だから、ジリジリ焦がれるように、〈知らない曲〉の正体を紐解きたいという思いが募った。「野生の太陽」は、そういう意味でも一層思い入れの深い曲である。

朧げな記憶によれば、ライブが終わったあと、私はその名前を探すべくインターネットの海へ向かった。今みたいにSNSを使ってもいなければ、セットリストを公開したサイトがすぐに見つかるわけもない。頼みの綱は、頭に残った「ゼロになれ」という歌詞。端的なフレーズを頼りに、該当する歌の名前を探した。

どれだけ短い歌詞でも、一部分がヒットすれば、そこから目当ての曲名を見つけるまでは早かった。そこで見つけた「野生の太陽」という名前。「野生の太陽」という名前を知ったとき、改めて、ようやく出会えたような喜びがこみ上げてきたことをよく憶えている。

広がりを持って波及していく前奏が印象的だ。どこからともなく、脳内に直接届くような音。「ゼロになれ」*1という歌詞が、催眠術をかけられたみたいに脳髄に染み込んでいく。まさしくゼロになった気分で、この曲のなかに没入していく。コーヒーに入れたミルクのように、少しずつ別の物質が混ざりあっていくようなイメージ。そこはかとなく密やかに繁茂する音と声に耳を澄ます。それを打ち砕くようなサビが、痺れるくらいにかっこいい。

これまで積み上げてきた密やかさを打ち砕くようにして「壊せ誰かが作った未来はいらない」*2という叫びが心を鷲掴みにする。まるで、組み立てた積み木を一気に崩すような一部始終を目の当たりにしているかのようである。

本当に、唸り声を上げてしまうくらいに、本当に、かっこいい。

たしかに音の運び、全体的な構成、盛り上がりを見せる部分、それらすべてが「野生の太陽」を形作るにあって欠くことのできない要素である。とはいえ、「野生の太陽」を聴いて心が奪われる最大の理由は、巧みな言い回しによって歌詞が編み出されていることにあると主張したい。

なぜならば、この歌詞、端的に言って引力がすごいからだ。歌詞に織り込まれているのは、才気溢れる言葉たちである。淡々と描写される情景、次々と繰り出される言葉は、乾いた大地に吸い込む雨さながら、体内に吸収されていく。

でも、この段階で言葉が体内をめぐっていることはまだ意識にはのぼっていない。おそらく、言葉が自身の一部になっていると気付くのは、改めてこの曲を聴くときである。もっと言えば、できるだけ、臨場感あふれる状態であることが望ましい。

たとえば、「一瞬は永遠かもしれない」*3ということを、THE BACK HORNのライブを見るたびに繰り返し心に刻んできた。ライブというかけがえのない時間は、その一瞬一瞬がまさしく永遠であることを痛感させるには十分すぎる。

目の当たりにする美しさも、漂う熱気も、笑った顔も、閃光のように光るまなざしも、そのすべてが、永遠なのだと、詳らかには名状しがたくも、たしかに感じるのである。

それから「血が沸き肉踊る恍惚」*4というのも、ライブで再三見てきた光景だ。この既視感。いや、この言葉が既視感になったにちがいない。

こうしたことを一度感じてしまったら、ライブのたびにこれらの言葉を思い出すことになる。ライブのたびに、この言葉を反芻するのである。

「野生の太陽」を繰り返し味わううちに、この言葉たちが自身を形作る一助になっていることに気付く。そうやって、言葉はリアルな質感を伴って腑に落ちていく。

「裸足の夜明け」で目撃した鮮烈な情景。灼熱のマニアックヘブンでぶちかまされた一曲目。それらすべてについて、呼吸を弾ませることなしに語ることはできない。

知らなかった曲が、時間の経過とともに名前のある曲として確立され、静かに根を張る。ごく自然で、他愛ないこの営みが、一個人にとっては紛れもなく劇的な変化である。

たしかに初めて聴く、という経験を繰り返すことで自身のなかに根を下ろすのは他の曲も同じことではあるが、とりわけ「野生の太陽」は、自分のなかの立ち位置を一気に変えた、ドラマチックな曲だという意識が強い。

今思えば、THE BACK HORNが創り出す世界に未知があることは、自分にとってもどかしさであると同時に、新鮮な楽しみが残っているという至福でもあったと形容できるかもしれない。

そういうのを、楽しみの両面性が秘められている、と形容することができそうである。

知らない状態から知ることによって溢れ出す喜び、興奮があると同時に、知っていることで噛み締める喜び、狂喜もある。どちらも同じくらい、とても尊い

初めて見たときに名前を知らなかった歌は、今となってはたしかな名前とともに、自分のなかに息づいている。脈々と流れる血潮のように、「野生の太陽」が類を見ない臨場感を携えながら打ち鳴らす鼓動を、私は折に触れて知る。

*1:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

*2:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

*3:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

*4:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

THE BACK HORN「夕暮れ」|なんとか、生きていく

「ディナー」のあとに耳にする「夕暮れ」は一層の浄化作用を伴う。「純粋になりたかった」と過去形で語られるこの曲の冒頭からは危なげなくらいの純粋さを感じてしまうし、そこには繊細さも傷つきやすさも息衝いている。

何よりも、雪の結晶みたいに透明な声が、儚げながらも真っ直ぐに響くところが、より一層胸を抉ってくる。透き通るようなきめ細やかな声。この一糸纏わぬ声こそ、胸を抉る鋭利な切先でもあるのだろう。

リアレンジ版と比べると、原曲の「夕暮れ」は、サイダーみたいに爽やかで、ツバメが飛ぶように軽快で、ここで鳴らされる音たちからは、やるせなさも、悲しさも、顔をしかめるような悔しさも微塵も感じない。

だから、聴いていると揺さぶられるのだろう。軽やかな音とは似ても似つかない感情が綻んでいるこの歌に。

リアレンジ版の「夕暮れ」は、まさしく腰を据えてゆったりと聴きたい曲である。「夕暮れ」が始まると同時に耳に入ってくるドラムの音は、ゆっくりとした歩調にもなぞらえることができそうだ。

この部分がほんの少しだけ、覚束なそうにも聞こえるのは、両手でまんべんなく叩いているわけではないことを知ったからかもしれない。直近のライブを見ていて、〈この部分は右手だけで叩いているのか〉と感じたことが印象に残っている。

ドラムは四肢でまんべんなく叩く楽器、なんて荒唐無稽なことを抱くくらいには楽器演奏に疎いから、なんだかその姿が意外に思えて、新鮮に感じたのである。

いずれにしても、オールスタンディングだと松田さんがよく見えないことが多い。それもあって、ゆったり構えてじっくり見るライブはやっぱり隅々まで見渡せるので、今更ながらの〈そうだったのか!〉があって楽しい。

ところで「夕暮れ」は冬の歌だから、正反対の夏にいると冬の冷たい空気がいつも以上に恋しく思う。冬の空気はほかの季節のそれと比べてとても澄んでいる。空は高くて、空気は冷たくて、肺が軋むような思いに駆られる。

太陽の温度を名残惜しむように、遠く高いところにある頭上で橙と青が交わる。この空とは、冬にしか出会えない。「夕暮れ」のなかでふれられる「天国」とは、絶妙な色合いによって描き出される美しい時間のことなのかもしれない。

「純粋になりたかった」*1という気持ちとは裏腹に、「嘘でほっとして」*2しまう自分自身の存在。やるせなさと諦めが、あたたかくてやわらかな音に包まれながら紡がれていく。「夕暮れ」は、本当にやさしい歌だと思う。

とはいえ、単にやさしいだけではないのがTHE BACK HORNが創る歌だ。歌詞に目を向ければ、悲しみや切なさというような、やさしさとは相反する事象があちらこちらに散りばめられている。

悲しい歌を悲しいままに歌わず、やさしさをぶち込んでくるところが、より一層の切なさを掻き立てる。たとえば「夕暮れ」は、やさしいメロディーに乗せられることで、得も言われぬやるせなさが一段と際立っている。なんだか、もどかしい気持ちがこみ上げてくる。

光が強ければ強いほど影が色濃く強調されるように、「夕暮れ」のやさしさは、ささくれ立つ心を撫でもするが、一方では、物悲しさだとか行き場のない感情を際立たせる役目も果たしている。

行き場のない感情や、得も言われぬやるせなさ。それらがやさしさと綯い交ぜになって、ひいては悔し涙になる。でも、ここで、くずおれてしまうわけではない。「夕暮れ」とは、そんな勁さが中核に据えられた歌である。

「夕暮れ」という歌に秘められている〈なんとか生きていくことができるだけの精神的な勁さ〉について考えてみたくなった。

それはまるで、〈泣きながらも、ご飯を食べる〉ということと似ている気がする。泣きながら、ご飯を食べたことがあるひとは、きっと大丈夫。敬愛する表現者が、そう言っていた。

その心は、と言うと、おそらく絶望に打ちのめされても、生命活動を維持できるだけの精神力が備わっているから、ということなのだろう。そういうときでも、生命維持に舵を切ることができるのは、勁さの表れにほかならない。

悲しみに明け暮れても、胸がチクリと痛むような思いがしても、溜飲が下がらずとも、やるせなさをやるせないままに抱える。胸がいたたまれないほどに軋もうとも飯を喰らうように、たぶん、なんとか、生きていける芯の強さを感じる歌。それが私が感じる「夕暮れ」である。

穏やかな曲調を纏いながらも、そこには研ぎ澄まされたしなやかさが生きている。「夕暮れ」にはなんとも気丈な精神が秘められている。

そう言っておきながらも、「夕暮れ」は、もちろん気丈なだけの歌ではない。血が通った人間が思い通りにいかずにじたばたするさまも、ありのままに描き出されている。

綺麗になんか生きれねぇさと
唾を吐いて道に転げた
会いたくなって切なくなって
情けなくて泣けてきた 夕暮れ
THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

「唾を吐いて道に転げた」って、結構な悪態をついているし、有り体に言えば、清々しいほどのダメっぷりである。この、どうしようもなくって、じたばたする感じが、堪らなく好い。じたばたしている本人にとってはそれどころじゃないだろうけれど。

涼しい顔をして生きているんじゃなくって、ままならさを抱えながら生きている描写があまりにも鮮やかだから、想いを乗せて歌を届ける彼らも人の子なんだな、と、おこがましくも親近感を覚えてしまう。

どれだけ生きても、私はまだ「誰かの為に生きてく」*3ことが解らないでいる。自分のために生きているのかさえも、実際のところ訝しい。生き続けていたら、少しは分別がつくのだろうか。まずは、ほかでもない自分のために生きていくとしよう。

*1:THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

*2:THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

*3:THE BACK HORN「夕暮れ」、2002年

THE BACK HORN「ディナー」|滴る甘美

「マテリア」に引き続き、さらに深く深く深いところまで潜っていくように濃密な世界が繰り広げられる。「ディナー」がはじまる。未だかつてこの曲をライブで聴いたことはあるだろうか…。記憶の限りでは一度もないような気がする…。

前奏だけ切り取れば、警告音が今にも鳴り出しそうな不穏な空気が立ち込めてくる。「ディナー」に潜ることで溢れ出す艶やかさは、まだここでは正体を明かしていないようだ。

腫れ上がるような四弦と、金切り声を上げるような六弦が重なり合う。けたたましさを滑るようにして山田将司が歌いだす。鳴り響く低音に支えられるようにしてすべての音が重なり合う。骨まで振動するような音の厚みに圧倒される。

歌詞を見てみると、思った以上に簡潔にまとめられていることに改めて気付く。それなのに歌詞が与えるインパクトはあまりにも大きい。最大の衝撃だったのは「汚物まで愛して欲しい」*1というパワーワード。新しい可能性の扉が開いたか否かについてはここでは触れるまい。

重厚な音が辺り一面をぶん殴るようにして弾けるのと同じくらいに、明快にして強烈な言葉たちが音に乗って飛び出す。散りばめられたパワーワードが炸裂するところにいたっては、快楽に等しい愉悦にも感じられる。

艶めかしいエロスと殺傷力のあるヴァイオレンスの狭間に響く「ディナー」。そこにはホラーやグロテスクもひしめき合っている。なんとなく直視するのが躊躇われる事象が綯い交ぜになって立ち現れる。例にもれず目を逸らしそうにもなるが、不思議なことにそれができない。むしろその光景が繰り広げられるさまを刮目してしまうにちがいないとさえ思う。

これは音楽なのだから、ライブなどで見ることをのぞけば、そもそも直視などできるわけがない。それにもかかわらず、目を逸らしそうになることができなくなる現象というのは、言うなれば、曲に惹き込まれて身動きが取れなくなっている状態でもあるだろう。

途轍もない引力はTHE BACK HORNを起点として電波のように四方八方に広がっている。彼らの曲だからこそ、どうしたって焦がれてしまう。惹かれてしまう。

この曲の歌詞だけ見ればアンダーグラウンドを煮詰めてジャムにしたようなクセの強さがうかがえる。が、破裂しそうな音と合わされば、不気味さがかえって隠し味になって、決して陰湿ではない「ディナー」が出来上がる。この様子は、まるで鬱屈を蜂の巣にするみたいな解放感に溢れているとさえ感じられる。どぎつい「ディナー」に潜む一握の甘美に心酔する。

アンダーグラウンドのなかにある種の爽快感を体現する表現力の凄まじさは、この歌が殺伐としていながらも睨みを利かせたようにギラついているところに行きつかせもする。そこには「ディナー」だからこそ描き出せる類まれない美しさがある。

腫れ上がる殺意の名は ブルース ブルース

THE BACK HORN「ディナー」、2002年

ブルースを言い表す粋な表現というものは、古今東西きっと存在しているにちがいない。それにしても、THE BACK HORNが描写したブルース以上に心が搔き乱されるブルースは存在していないのではないだろうか。

鮮烈で、過激で、手を付けられないほどに巨大化してしまった感情、言い換えれば赤色巨星のように膨れ上がった殺意を「ブルース」にしたたためると考えてみる。そのとき、周囲を巻き込んだ「ブルース」は、どんなふうにして超新星爆発を引き起こし、最期の最後にはどんなブラックホールが出来上がるだろう。

そういえば、「ディナー」のなかで「天井裏は宇宙」*2だった。

THE BACK HORNが言うところの「天井裏は宇宙」で、「部屋の隅っこ」*3は「宇宙の端っこ」*4とほぼ同義で、「洗濯機の中」*5には銀河が広がる。THE BACK HORNを携えて生きると、生活の端々に宇宙が潜んでいることを知る。

こうした脈絡で歌っているわけではないことは重々承知だけれど、星と星を結んで星座にするみたいに、歌詞と歌詞を合わせることで違う角度から彼らの世界を見てみるのも、勝手な解釈と分かりつつ、とてもおもしろい。

彼らの視点を組み込めば、私たちの生活には宇宙がたしかに潜んでいることを意識できる。どう生きても悩みは尽きないし、それらに押しつぶされそうになることも、残念だけれど頻繁に起こる出来事である。そうだとしても、宇宙から見ればどれも塵に等しいことも、時には思い出してみると呼吸しやすくなるかもしれない。

現実は容易く変わらないけれど、自分の認識ならそれよりも変えやすいのではないか。さらに言えば、認識を変えずとも、いつもとは違う見方があることを知るだけでもいい。それが習慣になったころには、きっと認識はそれ以前とは変わっているはずだから。

*1:THE BACK HORN「ディナー」、2002年

*2:THE BACK HORN「ディナー」、2002年

*3:菅波栄純「ヘッドフォンチルドレン」、2004年

*4:同上

*5:菅波栄純「初めての呼吸」、2005年

THE BACK HORN「マテリア」|ままならない心

いろいろあって随分と長い間止まってしまった。久しぶりに書いてみたよ。「マテリア」っていい曲だなア。深く深くため息をつきながら、やはり私はTHE BACK HORNがどうしたって好きなのだと、改めて思えたよ。弁解はこれくらいにしよう。

深呼吸をするような心の安寧を体験した「夏草の揺れる丘」から一変し、おどろおどろしい前奏とともに妖艶な空気が立ち込める。ほんのすこしだけ「ワタボウシ」が始まるときの模糊とした感じにも似ている。

「夏草の揺れる丘」が描き出す情景とは打って変わって、操り人形が今にも動き出しそうな不思議な雰囲気が漂っている。「マテリア」のお出ましである。

「セレナーデ」や「プラトニックファズ」、それから「マテリア」の次に待ち構えている「ディナー」にも見受けられる蠱惑的な雰囲気に今にも酔いそうである。さながら、瓶が割れた香水のようにガツンと苛烈に香り出すかのように。

ところで「マテリア」の語源は何であろうか。聞き馴染みのある言葉で言うと「material」という英語を彷彿とさせる。「materia」そのものはというと、ラテン語で「物体」や「物質」などを意味するようである。比喩と見れば「マテリア」という曲のなかでは「玩具」とも意訳できるかもしれない。

言葉の成り立ちについての詳述は専門家に任せるとして、改めてこの歌について見てみたい。

今にも動き出しそうな人形、さらに言えば傀儡を思わせる規則的なリズムは不気味さを醸しながらも心地がよい。前半部分は特に無機質に淡々と歌われているところが「物質」を表しているようにも思われる。

「バラ色の部屋」*1とか「ワインの花」*2とかいう表現があるから、この歌は深紅を纏っているようにももちろん思えるのだが、核心にあるのは、ガラス細工のように透明な心であるように思えてならない。

もしかすると「シャンデリアの雨」や「ガラスのオブジェ」という言葉たちによって、今にも壊れそうで繊細な玻璃が連想されるのかもしれない。いずれにしても、見る角度や状況によって違ったふうにも見えるような表情を持つ歌に弱い。

あぁ 出会いという 運命の美しい鍵は
そう 愛の消えた心までも こじ開けてしまう
THE BACK HORN「マテリア」、2002年

出会いについて語られる一節は、芳香が漂うように甘美である。否応なしに感応せずにはいられないことを、この「出会い」というものによって思い知らされる。たとえ「愛の消えた心」であったとしても、心が震えてしまうような出会いが存在しているらしい。

一般的に〈別れ〉には何かと理由がつきまとう。が、それに対して〈出会い〉は理由がつけられないことも多い。何の因果か、何かしらの巡り合わせの結果、お互いの人生が交差するのである。

〈別れ〉によって引き裂かれそうになる心の痛みこそ、情緒をひっきりなしに刺激する。予期していようといまいと、〈別れ〉がもたらす裂傷はどうにも受け容れがたい。〈別れ〉というのは、刺激的というよりは胸を衝かれる出来事だと言える。

それに対して〈出会い〉というのは、操作できない事象である、という意味においては刺激的であることはおそらく間違いない。

それでは、「マテリア」のなかで、〈出会い〉という強烈な刺激によってこじ開けられた心の顛末とは、一体。

一般的に物質の対義語は精神とされている。熱が高まるかのように切実に音が紡がれるさまは、物質とは対極にある情感が込み上げてくるのにも似た勢いを感じる。物質に宿る感情とでも言おうか。さながら、割り切れない感情が疼きだすかのようである。

「マテリア」という曲の妖艶さは、光に向かって乱舞する蛾のようにはためく。蝶のように悠がなのではなく、蛾のように一心不乱に羽ばたく姿のほうが個人的な想像に近い。

そういえばヨナクニサンだったか、クスサンだったか失念したけれど、彼らのような大きな蛾は、成虫になると口が退化し絶食を余儀なくされるらしい。

変態ののち、4日から1週間程度で餓死するという彼らの顛末を見かけて、なんとも情感に訴える生涯であると思わずにはいられなかった。

とはいえ、彼らにとってはそれがきっと当たり前なことで、それこそが彼らの生涯で、人間から見た勝手な情緒の押し付けでしかないことは解っている。

それでも、このままならさが、心の底で疼くのだ。

蜘蛛の巣に絡めとられて身動きが取れない蝶だとか、電灯に吸い寄せられて身を焦がす蛾だとか、そういうままならなさが「マテリア」からもそこはかとなく連想される。こうした〈ままならなさ〉を彼らの音楽を通じてジリジリと灼けるように感じることになる。

言葉で表しきれないところに確実に存在する情緒。言葉で表せたとしても、釈然としない想い。ままならさ、あるいはもどかしさが喉の奥で震えているようである。

〈出会い〉によって否応なく開けられてしまった心は何を知ったのだろう。もしかするとそれは、身体の温みなのかもしれない。

心臓の温もりを 体に残して
THE BACK HORN「マテリア」、2002年

心臓の温もりだって、触れなくっちゃ知る由もなかった。体に残った、あるいは残された温もりは幸福だろうか、それとも呪いだろうか。

時間が経ってみないことには、判断できないことかもしれない。

*1:THE BACK HORN「マテリア」、2002年

*2:THE BACK HORN「マテリア」、2002年