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THE BACK HORN「扉」|扉を開いた先にあるもの

「扉」を聴いたとき、心臓の鼓動をふと感じた。心がときめく、ということ以上に、ドクドクと脈打つ心臓そのものを、命の息吹を、つまり脈動を、この歌から感じ取ったのである。穏やかな曲調とは裏腹に「扉」という歌から想起されるのは、静かなる闘志、命との対話、研ぎ澄まされた刃の切先のようにギラリと光る、そんな情景である。

『ヘッドフォンチルドレン』という珠玉の作品の幕開けとなるこの曲は、まさしくそれに匹敵する凄まじい熱を帯び、青い炎さながら煌々とエネルギーを放っている。『ヘッドフォンチルドレン』という世界に入り込むのに、この「扉」という曲は十分すぎるくらいの起爆剤になる。

『ヘッドフォンチルドレン』はTHE BACK HORNの4枚目のフルアルバムである。はばからずに言えば、いわゆるベストアルバムはこれだ!と主張したいくらいに、すべての曲が主役であるように思えてならない。いや、でも、いっそのこと、主役はない、と言った方がより正確かもしれない。

各々がそれぞれの人生を歩んでいるように、このアルバムの楽曲たちもそれぞれの曲が頭角を現しながら存在している。熱量も、勢いも、留まることを知らない一枚。それが私にとっての『ヘッドフォンチルドレン』である。

余談ではあるが、個人的にTHE BACK HORNをはじめて聴く人には、ベスト盤よりも先に『ヘッドフォンチルドレン』を勧めたい。なぜならば、このアルバムでは、ほとばしる命をありありと体感できるからだ。

珠玉の作品だと、何百回、何千回言おうと一聴するには及ばない。だから、ただ、『ヘッドフォンチルドレン』をとにかく聴いてほしい。そこで繰り広げられる命の躍動を堪能してほしい。

さて、照準を再び「扉」に戻そう。冒頭でもふれたとおり、名作の火蓋を切るのは「扉」という鼓動のような歌である。

静かに始まるその様相からは想像つかない熱量がこの歌に込められていることを噛み締めては心を奪われる。マグマが勢いよく流れるように、胸の内に秘められたたぎる思いがこみ上げてくる…。「扉」とは、そんな瞬間に立ち会うような歌だ。

ふんわりと包み込むような歌のなかにはどっしりと重たい信念のようなものがあって、それに触れたら吹き飛ばされそうなくらいに、嵐のような猛威をふるってさえいる。

こんなに美しいのに、なぜヒリヒリした痛みを感じるのだろう。

「扉」という歌では、真っ直ぐな気持ちが礫さながら降り注ぐ。切実な思いの結晶が心を穿つ。これほどまでに胸に迫る切実さとは、いったい何だろう。歌に直接触れることはできないのに、まるで〈何かを掴んだ〉ような心境に至るのはなぜだろう。

ここで感じた痛みと手応えについて、「扉」という歌を深掘りしながら紐解いてみたい。

「扉」のなかで切実な重さを伴って響くのは、「誰の為に生きているのだろう?」*1と真っ直ぐに投げかけられる問いである。

この言葉が生々しい感覚を伴って突き刺さるのは、私自身にとっても意識に上がってくる重さを持った言葉だと同時に、ほかならないTHE BACK HORNが、もっと言えばこれを作詞した山田将司が、こうした思いを抱えていたことを知るからでもある。

たしかにこの言葉はほかでもない自分自身が共鳴する言葉であるが、その反面、歌い手が放つ本気の思いとしても立ち上がっている。だからこそこの言葉を聞いたとき、聴く者は感銘を受け、心の一端を垣間見る営みが同時に発生するといってもいい。

見ないふりをして、触れずにいた核心を突かれるような痛みを覚える。が、そういう核心を包み隠さずにさらけ出してくれたことに救われもしている。まさしく痛みが呼応するような体験を重ねている。

このとき、軸になっているのはこの痛みだ。見過ごせないこの感覚こそが、切実にこみ上げてくる感情の正体と見て間違いない。

「扉」を聴いたときに感じた手応えについては、〈痛み〉という言葉を糸口にしながら紐解くことができるかもしれない。

痛みが呼応した先にあるのは、一糸まとわぬ思いの数々だ。本当は奥底に隠しておきたいやわい部分をさらけ出すことで、ようやく共鳴するにいたる魂が、ここでは描かれている。共鳴、それはときには痛みを伴う営為であるらしい。

痛みの水脈を辿る。すると見えてくるのは、未来に向かって投じた一石の痕跡である。とくに心を射止めるのは、「何ができる?この身を捧げて」*2と投げかけられた疑問である。

この疑問の先には、差し込む光さながらの決意が自ずと見えてくるような思いがする。しかし差し込む光の正体は、「扉」のなかで表されてはいない。こう思うに至ったのは、現在のTHE BACK HORNを折に触れて見聞きしているからかもしれない。

光の正体について、あくまでも一個人の解釈に過ぎないが、思ったことを書いてみたいと思う。それは、今のTHE BACK HORNや、これまでの彼らの軌跡にふれて思ったことでもある。

「この身を捧げて」できること。それは、おそらく、人生を賭けて歌う、ということだ。

こうした印象を抱くにあたって、明確なきっかけがあったわけではない。ただ、彼らが彼らの音楽に向かっていく姿勢に幾度となくふれてきたことで、自ずと腑に落ちたことである。

私が抱いた感覚の真偽のほどはさておいても、まごうことなき事実なのは、「扉」を世に放ったときから今に至るまで、THE BACK HORNは変わらずに魂の歌を届けてくれている、ということだ。それはきっと、これからも変わることのない本質であるにちがいない、と、私は願ってやまない。

〈魂の歌を、人生を賭けて歌う〉

期待も踏まえた内容ではあるが、改めて、この視点から「扉」という歌を見てみる。すると、この歌は、自分たちにできることを真剣に見つめなおすような、覚悟と闘志に燃えるような歌として立ち上がってくるのだ。

このことを踏まえると、「扉」という歌は、契機として捉えることができるかもしれない。すなわち「扉」は、『ヘッドフォンチルドレン』という作品を始めるだけではなく、彼らの決意を改めて表明するような役目をも果たしているのだ。まさしく、新たな世界を開くための「扉」として。

鼓動とともに瑞々しい命が躍り出す。込み上げてくる切なさや、行き場がない感情をどうにか言葉にして放つさまは、さながら悲鳴のようでもある。

「扉」という歌を聴く。そこはかとなく命に触れたような思いがする。それもそのはずだ。真剣なまなざしに裏打ちされるのは、生きていくことを頑なに選んだ姿にほかならないのだから。

*1:山田将司「扉」、2004年

*2:山田将司「扉」、2004年