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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「夏草の揺れる丘」|心に咲く大切な言葉

なにやら名状しがたい想いが疼いている。言葉にすることは世界を分節するには必要な過程だと思う反面、何でもかんでも言葉にしようと躍起になるのはいささか無粋である。どこからどこまでがそれらの範囲に該当するのだろう。

それはそうと、「夏草の揺れる丘」について。悲しみを知ったやさしさを凝縮したら「夏草の揺れる丘」になりました、みたいな感じがする。表現の限界が来ている。

夏、ひぐらしが鳴く頃に聴きたい曲である「夏草の揺れる丘」。夏の歌縛りでセットリストを組めるくらいには、THE BACK HORNが描き出す夏はふんだんにある。しかも彼らの夏が魅せる表情は千差万別で、それぞれの趣がしっかりと息衝いているところもたまらない。

たとえば「8月の秘密」みたいに炎天下の夏を蜃気楼とともに浮かび上がらせる曲もあれば、「蛍」のように少しだけ暑さが収束した夏の夜を凛々と奏でる曲もある。

それらとは異なって「夏草の揺れる丘」における夏は、「宵待ち」という歌詞からもわかるように、夕方から夜に差し掛かる黄昏時の情景が描かれている。西の空で朱と紺碧が出会う頃と言うとひぐらしの鳴き声が思い起こされるのだが、ここでは「祭囃子が遠く聞こえる」とあるから、もしかするとひぐらしの鳴き声は祭囃子よりも控えめに響いているのかもしれない。

「夏草の揺れる丘」を聴いていると、望郷の夏が鮮やかに立ち現れると同時に切なさも込み上げてくる。遥か遠い昔に匿った夏は、なぜこんなにもやさしい表情で笑うのだろう。

そもそも「夏草の揺れる丘」は浄化作用が強すぎる。そういう意味では、情緒をめった刺しにしてくる殺傷力がこの曲にはある。穏やかな歌が情緒をそっと撫でるわけではないということは、THE BACK HORNの歌を聴いてきて身をもって知ったことでもある。

彼らの楽曲に限ったことではないのかもしれないけれど、綺麗すぎるもののほうがある意味では劇薬で、それがガツンと響いて瀕死状態になることって、結構多いよな。

たとえば初夏を彩る木々、路傍に繁茂する草花。彼らの色彩は灰色の街では目立ちすぎるから、率直に言うと目が痛い。同時に溢れだす生命力をこのうえなく感じるほかないから、鬱々としている自分には眩しすぎる。美しいことは解っているけれど、それが結構つらかったりする。生命の躍動は、創造していながらにして、実は相当な破壊力を秘めている。

横溢する生命力がこの曲に座を占めているわけではないけれど、「夏草の揺れる丘」は、綺麗すぎる思い出があたかもそこにあるかのように思わせる力があり、さらには、そのありもしない思い出だとか望郷に私たちを引き寄せもする。この曲が秘める引力は、途轍もない。

曲自体の魅力もさることながら、THE BACK HORNらしさが詰まった言葉たちにも恍惚とする。たとえば次のフレーズ。

世界中の悲しみを憂うなんてできねぇさ

せめて大事な人が 幸せであるように

THE BACK HORN「夏草の揺れる丘」、2022年

THE BACK HORNらしさ1億%の言葉たちに心からの安心を覚える。世界平和だとか、愛の力だとか、みんな仲良くとか、〈それっぽいなんかいいこと〉を言うのは容易いが、彼らはそれを絶対にしない。過度な装飾が施されていない言葉だから、彼らの言葉は聴き手めがけて一直線に響く。

こうした姿は「一つの光」における「置き去りの痛みも 輝ける未来も 全てを愛せないから あなたを愛せた」という歌詞にも通じていると思えてならない。

限られた範囲があるからこそ、心から祈ることができること、言い換えれば、心の底から想えることがあるということを、「夏草の揺れる丘」は教えてくれる。言葉や想いの重みはこうしたところに宿るはずだと、私は信じている。

私も心から願おう。「せめて大事な人が幸せであるように」。当てどころのない祈りを捧げるよりも、少しくらいは信ぴょう性もあるだろう。

ところで「夏草の揺れる丘」と言えば、何度も反芻した歌詞がある。この歌詞にも幾度となく救われたし、今でも胸に煌々と灯る光である。今日を越えるためのたしかな糧である。

明日は分らぬのに 人は約束をする

いつかまた会う日まで 生きる意志なのだろう

THE BACK HORN「夏草の揺れる丘」、2022年

己を明日に向かわせてくれる言葉は、たしかな救いであり道しるべでもある。この言葉を思い浮かべながら、何があるか分からない明日が押し寄せてくる日々を、何度泳ぎ切れたことだろう。暗闇を照らし出す灯台さながらの眩しい言葉である。

何百回足を運ぼうともライブは私にとって非日常である。が、たとえ非日常であろうともライブが「生きる意志」を固めるには十分すぎる約束であることに変わりはない。そんなふうに自分を少しずつ誤魔化しながらも、明日へを歩を進めることができれば上出来だろう。

現実の空 日々の憂いが 雨になって落ちる

諦めばかり巡る夜もあったけれど

今 雷鳴が 胸を叩く

もがきながらまっすぐに立てと

THE BACK HORN「夏草の揺れる丘」、2022年

生活に潜む悲しみと、それを撫でるようなやさしさと、それから、そのあわいを漂う切なさによって編み出される情緒を、何と名付けたらいいだろう。

日常における憂鬱とその痛みを的確に言い表す汀優りの表現力に、雷に打たれたような衝撃が走る。

いつ聴いても〈なんか、大丈夫だ〉そう確信させてくれるのがTHE BACK HORNである。

こんなにも勁い歌が私には宿っている。私のなかに脈々と生きている。私のなかにたしかな脈動とともに生きている。

何処まで行けるかは分からない。が、たしかに何処までも行けそうな気がしてくるのだ。

何度でも歩き出せる

何処までも行ける気がする

THE BACK HORN「夏草の揺れる丘」、2022年

懐に忍ばせておきたいと思うのは、この歌詞も例外ではない。そんなふうにして日々に溶け込む言葉たちが、THE BACK HORNの歌のなかにはたくさんある。

ふとしたはずみに脳裏を掠める歌詞が思いもしないヒントになったり、救いの一助になることがある。

いつでも思い出せるところに歌詞を忍ばせておく。

そうすれば、それらが何かの拍子に飛び出した言葉が、自身を繋ぎ止める命綱になってくれるにちがいない。

いつでも思い出せる言葉があるということは、たぶんまだこの世界に留まることができる、ということを意味するからである。

そうした言葉が我が身を奮い立たせて、自分の足で新たな一歩を踏み出す契機にもなる。

たしかに歩き出すのは自分次第ではあるが、自身が歩き出すための原動力になってくれるのは、音楽をはじめとする他者によるところが大きい。

自分が愛するものたちに幾度となく背中を押してもらう。自分の番は、それからである。大切なものたちに何度も何度も力をもらってから、自分にしかできないことを自分がやる。立ち上がるのも、歩き出すのも。命を支えてもらったり、支えたりしながら、生きていく。

ともすると先行きを見失ってしまう。だから、繰り返し銘記しよう。「何度でも歩き出せる 何処までも行ける気がする」ということを。