メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「ワタボウシ」|静と動、光と影

THE BACK HORNのアルバムは、収録されている楽曲たちの目覚ましさもさることながら、タイトル名がとにかくどれも異彩を放っている。たとえば『人間プログラム』、『イキルサイノウ』、『ヘッドフォンチルドレン』、そしてもちろん、この『心臓オーケストラ』も。簡潔に表された言葉の連なりに何度も胸を打たれ、恋に落ちている。

『心臓オーケストラ』を手にしたのはいつだろう。裸足の夜明けのときに聴いた「野生の太陽」を知らなくて、それから購入したような気がする。たしかあれは、今はもうなくなってしまった、小さな薄暗いCDショップだった。

例にもれず、私も中二病の罹患者だった。周囲の人と関わるよりも、iPod片手に爆音を流して集団を避けている方が心地よかった。お前らが知らない世界を私は知っている、と優越に浸りたかったのかもしれない。我ながら幼すぎて正直きまりが悪いけれど、誰にだってそういう時期があるような気がする。

魔法陣を書いたり、邪眼が疼いたりしたわけではないけれど、枕に顔をうずめて足をバタバタしたくなるようなことは、人並みにある。

そんなふうにして、ささくれだった17歳の心に『心臓オーケストラ』は最高に響いた。通学中に電車に乗りながら聴く「ゲーム」とか、最高に滾ったことを憶えている。

思春期真っ盛りの情緒を刺激しまくった『心臓オーケストラ』。このアルバムでは、バッキバキに押し寄せる曲たちも印象的ではあるけれど、それらとは対極にある〈静〉が一層際立つ曲がとても味わい深いのも『心臓オーケストラ』ならではの魅力だ。

たとえば1曲目の「ワタボウシ」。手のひらに掬った新雪のように、あっという間に溶けてしまいそうなほどの儚さと、進路を照らし出す一条の光を思わせるようなしなやかさがこの曲には同席している。静寂と轟音が手を取って織り成す調和に、一心に耳を澄ます。

妖しげな音が反響するとともに広がる音。曲名に掲げられているとおり、雪明かりさながらの夜が広がっているようだ。ときに雪は、夜とは思えないほどに世界を明るくすることがある。

雪明りの風景を思い起こすからなのか、あるいはマニアックヘブンVol.14で目の当たりにした情景が今もなお鮮烈だからか、「ワタボウシ」は途轍もない光を放つ曲である。言うなれば、まさしくステージのライトみたいに眩しくて、目がくらみそうになる。

夏の歌を筆頭に、季節が分かる歌はとても好きだけれど、やっぱり雪の描写がなによりも好い。雪の情景が描かれている歌は、なぜか情緒を攫っていく。そんなところが、このうえなく好きなのだ。

たしかに毎日見ればうんざりもするだろう。たとえば、水を含んだ雪が氷になって一面スケートリンク状態になる日本海側の街をかつては呪っていた。ちっとも歩けやしないし、油断すると容易にスッ転ぶし。

それでも、雪を嫌いになることはできなかった。もしかすると、人生の大半を雪国で過ごしてきたこともあって雪は生活の一部だったからかもしれない。

夜なのに世界を明るくしてしまうところとか、それから、音を吸収するところとか、雪が醸し出す世界はそれに特有である。

たとえば、自分が雪を踏みながら歩く音以外、否、あるいはその足音さえも、雪は吸い込んでしまう。こうして静寂は世界を掌握する。

「ワタボウシ」では、まさしくその静寂が鮮やかに表現されている。

夜の雪は 無音の中で

歌うコーラス隊

しんしんと ただ 時を忘れて

踊るワタボウシ

THE BACK HORN「ワタボウシ」、2002年

雪がひとしきり降るさまを「踊る」と表現していながらも、そこは無音の世界であって、雪が音を吸収していくさまもそこはかとなく感じられる。「踊る」ということで律動を感じさせながらも、それとは対照的に同席する静寂。冬特有の神秘的な情景である。

冬の空気を思わせる凛とした声は、冬の海のなかをゆらめいて反射する薄氷のように儚げで、ひたすらに美しい。少しだけ覚束ないようにも聞こえるギターの音色は、目覚めたばかりの朧げな意識の象りにも聞こえる。この部分で、少しずつ音に厚みが増していくところが、まるで起き抜けの意識が少しずつはっきりしていくような感じと似ているのだ。

徐々に盛り上がっていくところがグッとくる。いつ、どんなふうに最盛を迎えるのだろう。聴き手はその熱をずっと待ち構えている。ここで踊っているのは躍動する生命。静かに、少しずつ開花していくように、光が弾けていく。

たしかにあまりにも強すぎる光は、万物をくまなく照らし出すと同時にその影を浮き彫りにもする。見方を変えると、照らし出されることで救われる心もあれば、炙り出される影もある、とも言えそうである。

それはまるで静が動を一層引き立てるような相補的な関係にも見える。光と影は、どちらがなくても、どちらとも存在できない。当たり前のことではあるけれど、どちらかがあるところには、どちらかが必ず存在している。

それはつまり、それぞれが生成するにあって、お互いがお互いを必要としている、ということでもある。こうして、表裏一体の光と影を改めて目の当たりにする。

壮大で、美しくて、この眩しさに、もとい光に照らされることでたちまち露呈する影があるとすれば、「ワタボウシ」のなかに限っていえば、それは「悲しみ」のことかもしれない。

僕には聞こえてる明日への鼓動

悲しみが連れてきた25時の奇跡

同上

「悲しみ」という影が連れてきたのは、「25時の奇跡」である。前述の歌詞にあるとおり、ここには「明日への鼓動」が脈打っている。

たしかにほかの季節と比べると、一般的に冬は命の芽吹きを感じる季節ではない。が、吐き出される白い息によって呼吸が見えるようになるのは冬だけである。可視化された呼吸の様相は、まさしく命の表れでもある。

呼吸のそれとは異なれども、「ワタボウシ」という曲は冬ならではの命を熱く表現しながら、そのさなかでたしかに呼吸する命が鮮やかに表現されている。

光あるところに影あり。またその逆もしかり。「悲しみ」という影がなければ、「25時の奇跡」は奇跡たりえなかった、と考えることはできないだろうか。

それは、都合のよい解釈に過ぎないのか。

「ワタボウシ」のなかで仄めかされる影。この延長に溶け込むのが、次にやってくる「ゲーム」という曲であるようにも思えてくる。影と一体化するようにも取れる様相。が、その向かいには、きっと光がある。