メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「生まれゆく光」|この光が照らし出す命について

滔々と流れるような六弦につつまれる歌。山田将司の声がとにかくよく映える。静かに、訥々と編まれる言葉に込められた祈りに耳を傾ける。

これらの言葉にたしかな重みと想いが宿り、矢が放たれるように聴き手をめがけて一直線に声と音が届く。悠然としたこの曲には力強い生命の脈動を感じる。

しなやかな命の萌芽を思わせるこの曲は、語りの可能性を秘めているように思う。説得力がある語りに、みるみるうちに呑み込まれていく。

この荘厳なさまには、息をのむばかりだ。THE BACK HORNだからこそ燃やすことができる命を、ここでもまた目の当たりにすることになる。

全11曲を収録した名盤『パルス』の最後を飾るのは「生まれゆく光」。アルバムの最後に光が生まれていく描写が差し挟まれることがあまりにも尊い

「生まれゆく光」を最後に掲げるということは、これから先が光で溢れている、ということの比喩だと思えてならない。一寸先は光、そうした希いが込められているようで胸がいっぱいになる。深い祈りの歌が、ここで密やかに、しなやかに開花する。

アルバムの最後の曲って、それだけでものすごい熱量を放っているように感じる。とくにTHE BACK HORNはその傾向が強い。

THE BACK HORNのアルバムの最後の曲たちは、本当に、これが、最後なんだな、と、見事なまでに名残惜しさを際立たせる威力を孕む。それはしっとりとした曲に限らず、アップテンポで華やかな曲であっても同じで、どれもちゃんと「終わり」を告げてくれる。

「生まれゆく光」も例によって『パルス』という世界の終焉を告げる。とはいえ、終わりと同時に始まりをも喚起させるのがこの作品であるように感じる。たしかに『パルス』はこれで閉じるけれど、THE BACK HORNの世界は、ここから新たな局面を迎えるところでもあったはずだ。

終わりと始まりにふさわしい「生まれゆく光」。終わりを名残惜しみながらも、ここから新たな展望が拓けていくことに対し、期待に胸を膨らませずにはいられないだろう。

その目背けないで探し続けてくれ

美しい生き方を 今

菅波栄純「生まれゆく光」、2008年

このあとからバンドサウンドが組み込まれていくことで、「生まれゆく光」はさらなる深度を増していく。光が差し込むような、光に照らし出されるような情景がふと思い浮かぶ。それは、ひだまりのなかでまどろむような暖かさにも似ている。

ここでの投げかけには、身の引き締まる思いがする。あまりにもやさしくて、まるで希いのよな、核心を突いた呼びかけ。

美しい生き方というのは人それぞれで、きっと千差万別にちがいない。それでも、板につくような生き方、もとい自分なりの生き方を見つけるのをやぶさかではないとさえ思えてくるのは、この語りが熱を帯びていることによる。

私にとっての美しい生き方とは何だろう。自分を貫いて生きることが、もしかすると一番近いかもしれない。そうは言っても明確な指標を保持することは案外難しい。これでいいのだろうか、ともちろん迷いもする。否、迷うことの方が多い。

生きていく途中で、躓きながらも自分なりの生き方を探していく。腑に落ちるような生き方は、どうにか藻掻くことであとからついてくるのかもしれない。足掻いている最中は実感もわかないだろうけれど、凪の状態になったときに、気付けば手元にあった、と思えるような感じとでも言えばいいだろうか。

思うようにいかなくて、投げ出したくなることも自分を呪うこともあるだろう。それでも、THE BACK HORNを聴いていると、すべてをかなぐり捨ててしまうのはまだ早いと、明日を望む気持ちがやおら心に芽生えてくるのだ。

優しさはきっと弱さじゃない

暗闇を照らす 照らし出す光

同上

たしかにやさしさというのは、暗闇を照らし出す光のような存在である。悲しい経験とか、つらい思いが募ったからと言って、必ずしもやさしくなれるわけではない。が、自身の弱さを知っているからこそ、誰かにやさしくできることがあるのも事実である。

私も、同じような痛みを抱える人に寄り添うことができるようになりたい。自分のことばかりに集中しがちだから、まずは己の弱さを知ることが出発点になるのかもしれない。

閑話休題

この大地に還ってゆく魂達 今

遥か彼方へ命の河が

流れ続けてゆくよ

同上

滔々と流れる「命の河」を彷彿とするような、壮大な情景が音によって描き出されている。生きているものたちよりも、還っていったものたちのほうが圧倒的に多い世界。脈々と紡ぎ出される音には、さながら無数の魂たちが乗っているようである。

めまぐるしく変転する世界に差し込む一筋の光。「生まれゆく光」を聴いていると、一閃する光を想起せずにはいられない。

泣きながら僕ら生まれてきた

愛し合うことを知る為に

果てしない時を重ねてきた

許し合うことを知る為に

同上

たしかな力強さとともに語り出される言葉には、彼らの魂が宿っている。あまりにも美しく、勁い魂が、たしかに呼吸をしている。この勁さに魅せられて、有無を言わさずこの歌に没入していく。

この歌詞にあるとおり、愛し合うことを知るために、僕らが泣きながら生まれてきたのだとしたら。許し合うことを知るために、気の遠くなるような果てしない時を重ねてきたのだとしたら。

不意を突く肯定に泣きだしそうになるのは私だけではないだろう。本当に、たしかな熱と重みがある言葉の力は計り知れない。

たしかに一朝一夕に許し合えるわけでもなければ、愛し合うことを知ることもできない。それでも、それでも、と繰り返し主張したい。生まれてきたことや消費してしまった時間を、悔いるよりも肯定してくれる言葉がここには存在しているのだ、ということを。

今は、まだ、その時は来ていないかもしれない。ご都合主義の希望的観測だったとしても、

いつかきっと、どうにか報われる瞬間というものがあるのではないか、という思いを禁じ得ない。

いつの日かきっと見つけ出せる

暗闇を照らす 照らし出す光

同上

私にとって「暗闇を照らす 照らし出す光」は、まさしくあなたたち、THE BACK HORNのことだ。「いつの日かきっと見つけ出せる」という言葉がとてつもなく心強い。本当にそうした「いつの日か」がやって来るにちがいない、と思わせてくれるのは、この言葉が強力な弾丸となって胸を撃ち抜くからだろう。

烏滸がましい推察だけれど、本当に、THE BACK HORNは、そうした「いつの日か」がやってくることを想定しているのだろうし、希ってくれているのだと思う。

だからTHE BACK HORNの言葉は心から安心できる。もっと言えば、彼らの言葉だからこそ信じているし、「また生きて会おうぜ」という言葉も、未来に向けたたしかな約束になる。

THE BACK HORNに出会えてよかった。夜明けに向かって歩き出す頃の彼らを『パルス』をとおしてリアルタイムで見ることができたのも、自分の人生にとって大きな契機だと改めて実感する。

現実を希釈することはほとほと難儀だから、ライブをはじめとした何らかのイベントで誤魔化して今日をこえて行く。回り道、遠回り、逡巡を繰り返すなかでも、「これだ」と言えるものがあれば、その存在が自身をこの世界に引き留めてくれるのだろう。これは間違いないという実感がある。

これ以上好きになることがあるのだろうか、と思っていたけれど、聴き馴染みのある楽曲たちをとおして、あるいはこれから出会う曲たちをとおして、これからもTHE BACK HORNを好きになっていくらしい。驚くばかりである。

さて、次のアルバムは何にしよう。迷いながら、一心にしたためよ。