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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「サーカス」|乖離するエンターテインメント

『甦る陽』は2000年にリリースされた2枚目のインディーズアルバムである。2001年にはリミックスされて改めて発売された。現在は2001年に発売されたものが主に流通している。

この作品は若さゆえの刺々しさや荒さが礫になってたまらない魅力を放っている。

若さゆえにコントールしがたい暴発するエネルギーだとか、あまりの純粋さゆえに垣間見える闇だとか、怖いもの知らずな放埓さとか、当時の彼らが抱いていたもどかしさと祈りの輻輳が『甦る陽』であるように思う。

さらにデビュー20周年を迎える2018年には『ALL INDIES THE BACK HORN』というアルバムも発売された。これはインディーズ期にリリースされた楽曲たちが時期は異なれどもリテイクされ、改めて2枚にわたって収録されたものである*1。ファン必携のヨダレもの、濃厚かつ豪華な作品であることは想像に難くないだろう。

『甦る陽』と『ALL INDIES THE BACK HORN』それぞれのアルバムを単体で聴くことはもちろんのこと、これらを聴き比べることによってもインディーズ期の楽曲たちをあらゆる方面から楽しみ、かつ愛することができる。それぞれの個性が時を越えて精彩を放つことを臨場感とともに知ることができる至福の作品たちに感謝するばかりである。

さて、今回焦点を当てるのは『甦る陽』である。先述のとおり、20年以上にわたって愛され続けているこの1枚は、時を経てもなお色褪せることなく才気溢れる珠玉の作品として鎮座している。これらの曲たちが年数に比例して古くなっていくことは不可避だけれど、古くなると同時に重みと威厳も増していっているように思う。

今もライブでお馴染みの曲もあれば、マニアックヘブンだからこそ聴くことができるディープな曲もあって、様々な位置づけの曲がこの1枚に込められている。まるでるつぼのような存在である。

インディーズアルバムにしてTHE BACK HORNの深淵を見つめるかのような面持ちになる『甦る陽』。この1曲目に登場するのは「サーカス」である。

サーカスとは端的に説明すれば様々なパフォーマンスを観客に対して見せる場である。そこで繰り広げられるのは、超絶技巧とも取れる身体的な妙技や曲芸であり、道化のような見世物も含まれるようだ。

そこはかとなく陽気な雰囲気が漂う興行団の「サーカス」とはあまりにも対照的なTHE BACK HORNの「サーカス」。彼らが演じる「サーカス」は嘲笑的なオーラを持ち、どこか冷笑的でさえある。

「サーカス」に特徴的なのは、独特な言葉づかいである。例えば次のところに見られるような語調である。

赤い砂漠をゆく 月の旅人よ

汝 夢を見ん さらば光有らん

THE BACK HORN「サーカス」、2000年

星影 我を憂いては 青白く揺れる

今宵は誰慰みて 笑うサーカス

同上

いささか古語を含んだこの言い回しが小気味いい。そこはかとなく彼らの盟友COCK ROACHを彷彿とさせるところがまた愛おしい。

日本語をとにかく大切に歌うところがTHE BACK HORNらしさの一つであると、個人的には思っている。この姿勢が『甦る陽』のときから脈々と受け継がれているのだと思うと、万感の思いを拭えない。

赤い砂漠と白い月の対比もコントラストが強めでギラついている印象を受ける。「異国の空」のように、「サーカス」にもどこか異国情緒が漂っていて、不思議で些か不気味な雰囲気を醸し出している。

「闇知らぬ者は光もしかり」*2という言葉にハッとさせられる。もしかすると、その逆もしかりなのかもしれない。つまり、光を知らぬ者は闇も知らない、と。少し斜に構えすぎだろうか。

光を当てるからこそ生まれる影は、光がなければそもそも生まれることがない。それと同じように、闇があるからこそ、光はその存在がより強調されることにもなる。

闇が先か、光が先かという問いはとりとめがないけれど、何らかのタイミングで、光か闇のどちらかを知るに至り、両者が切っても切れない関係であることも腑に落ちていくのかもしれない。

風の音を聴いている

悟ったわけではなく

立ち尽くしているだけ

同上

前半部分を駆け巡るおどろおどろしい様子から一変して、転調する終盤。「風の音を聴いている」とあるように、吹きすさぶ風のなかを「立ち尽くしている」かのような寂寥感が漂っている。にぎやかな音楽たちとは対照的な歌詞に胸が震える。

叫び声に擦れる喉、上擦るような叫び、叫びと叫びの間に宿るのは、繊細さ、あるいは脆弱さとも捉えられる孤高でもあるのかもしれない。「今日も又後悔に落つ 一人貝になる」*3という部分を聴いていて、ふとそんな気がした。

あがけど変わらぬ日を背負う我を

笑うサーカス

同上

先述したように本来の「サーカス」が目論むものとは対照的なTHE BACK HORNの「サーカス」。イメージの乖離があまりにも顕著なので、なぜ、この曲は「サーカス」という表題を掲げているのだろうか、という問いが頭から離れなかった。

ひょっとすると、人生という場を「サーカス」になぞらえ、日々生きることとは、道化を演じることであって、それはまるで滑稽な見世物さながらだと、自らを皮肉っているのだろうか。

道化の仮面をつけながら演じるようにして生きる。ただ、仮面を取ったときに剥き出しになる本性、あるいは本来の自分の姿、こうしてふと我に返ったときに思わず口を衝いて出るのが「我は何処だ」*4という疑問なのかもしれない。

仮面の下に匿われているのは、あまりにも脆弱で純粋な心、そして透明な魂。傷つきやすさを携えながら、叫び声はもちろん、声にならない叫びをも胸に、1曲1曲をひたすらに編み続けてきたのがTHE BACK HORNその人たちではあるまいか。

個人的な解釈を差し挟みがちだけれど、改めて聴くたびに、『甦る陽』が不朽の名作であることを繰り返し確信する。

どうかこの深淵を見続けたい。されば、この楽曲たちが織り成す深淵もこちらにまなざしを向けてくれるにちがいないと、無遠慮にも身を焦がしながら。

*1:https://www.thebackhorn.com/discography/detail/2676/

*2:THE BACK HORN「サーカス」、2000年

*3:同上

*4:同上