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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「茜空」|無常を受け容れる覚悟

こんなにも暗澹たる「茜空」が存在していることに、私は感動のあまり身震いしている。これは一層強い賞賛を意味する主張であることをあらかじめ断っておきたい。

「茜空」という言葉を耳にするとき、私が真っ先に連想するのは、言葉のとおりに茜色に染まった空であり、そこに影は存在していないに等しい。

とはいえ「茜空」は、見るものを惹きつける強力な引力を持つ一方で、他方では夜の気配を感じさせる絶妙なあわいであることも事実である。

翳りを色濃く描出する隙間である「茜空」。「斜陽産業」という言葉があるように、たしかに陽が沈む描写は没落しつつあることの比喩でもありえるし、衰退になぞらえもする。

THE BACK HORNが描き出す「茜空」からは、夕焼けそのものの美しさよりも、盛者必衰の色を見て取ることができる。

ああ 何も無く

そして回る地に巡る

震えの耐える事無く

生き行く

THE BACK HORN「茜空」、2000年

古風な口調が特徴的な「茜空」。出だしから展開されるこの虚無。鬱蒼と生い茂る虚無。夕焼けが照らす光に呼応して伸びる影さながら、暗鬱が心を侵蝕していくようである。

その苦しさを表したものが、「震えの耐える事無く生き行く」*1という一節であるようにも思える。

何があるのか分からぬ

分かる事なく生きゆく

何があるのか分からぬ

分かる事なく生きゆく

同上

めくるめく受難の日々を耐え忍ぶように生きゆく描写が、つららになって胸を貫く。渾身の叫びとともに繰り返されるこの部分には、この遣る瀬無さが投射されているようにも見える。

ところで、「何があるのか分からぬ」日々を「分かる事なく生きゆく」姿というのは、翻って考えてみれば非常に不可解である。「何があるのか分からぬ」なかを生きているのだから、足取りが覚束ないとしても当然のことである。

たった一つ、誰もが最期に必ず死を迎えるということ以外のことは、私たちは何も知らない。私たちは、すべてが不確定のなかを生きさまよっていると言ってもいい。

そもそも死ぬこと以外定かでない状態というのは、随分と逆説的である。結末を知っていながらも、それでも私たちが生きゆくことができるのはなぜだろう。

「それでも」と思えるための動機はなんだろう。

「わからないからこそ、生きることができる」という主張もあるだろうし、「命があるからこそ」ということも言えれば「死にたくないから」という見方もあるだろう。そのどれもがそれぞれが持ちうる固有の解である。

連綿と続くように思われる人生にも終わりがある。が、それが途絶えたとき、意識の主体である本人の意識はもう「ここ」には存在していないのだから、ある意味では人生は、「この私にとってのみ」連綿と続くものだと言ってもいいのかもしれない。

たしかに「点」で見てしまえば人生はひどくむなしいものかもしれない。が、「線」で見たときに、それが単にむなしさの集積ではないと言いたいのは、横暴だろうか。「死は生に意味を与える無意味なのです」と鷲田先生が紹介されていた言葉が脳裏をよぎる。

ところで、無意味さの現われと言えば、次の部分がとても印象的である。

繰り返す全ては

水のごとく流れて 止むのに

同上

「茜空」のなかで繰り返し強調されるように、「繰り返すすべては水のごとく流れて止む」という表現で編まれる無常と諦観が、この曲の根幹を成しているとみて間違いない。

諸行無常を嘆くように、あるいは口惜しむように語られるこの部分からは、THE BACK HORNらしい諦観が色濃く表されている。この諦めの気持ちが結晶となって大団円を迎えたものの一つが、「枝」という楽曲ではないかと、思わずにはいられない。

「茜空」で簡潔に語られた言葉を押し広げるかのように、「枝」では切実な思いが礫になって降りそそいでくる。

少し長くなるが、その部分を以下に書き記そう。

繰り返してゆく中で何が生まれるのだろう

過ぎてゆく時の中で何を残せるのだろう

あなたと過ごした日々も繋いだ手の温もりも

ここに居ることさえも ここに居たことさえも

忘れてゆくのに

全てを忘れてしまうのに

松田晋二「枝」、2007年

「枝」でも片鱗をうかがわせる諦観の念が行きつく先にあるのは、全てを忘れてしまうという無常である。が、「枝」で目覚ましいのは、「僕たちは笑う 生きてる悲しみを拭い去るように祝福するように」*2と無常を肯定する姿である。

これに対して「茜空」に特有なのは、一言で言うと「諦観」だろうし、言い換えれば「無常に抗うことなく、無常(あるいは無情)を受け容れる覚悟」であるように思う。

言うまでもなく、『甦る陽』という作品には、混沌とした生命のエネルギーが宿っている。が、「茜空」にはそれが迸るほどあるようには思わない。むしろ、諦めの境地と言ってもいいほどに諦観が漂っている、とさえ思う。

それは何に対してだろう。おそらくは、連綿と続く人生に対してだろう。

とはいえ、この曲は決して捨て鉢にもなっていなければ、投げやりにもなっていない。そうではなくて、「茜空」には無常を受け容れる覚悟がどっしりと据えられているのだ。だから、この曲が躍動的ではなくても、スッとした芯の強さを感じさせもするし、ブレない逞しさがある。

「茜空」で描かれているように、生きていれば、ときに「震えの耐える事」がないほどの苦しみや悲しみを味わうこともある。生きていく限り生活のなかに内包されるのは、喜びも悲しみも必至で、それらが折り重なってそれぞれの人生が編まれていく。

夜を迎える黄昏時、「よろけもたれ我あり」*3と想いながら「繰り返す全ては 水のごとく流れて 止むのに」という無常に沈潜する。が、定かなのは、そうしたなかを「生き行く」という覚悟である。宵の明星さながら、眩い光が一閃する。

*1:THE BACK HORN「茜空」、2000年

*2:松田晋二「枝」、2007年

*3:THE BACK HORN「茜空」、2000年