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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「覚醒」|痛みを分かち合ったこと

「覚醒」はTHE BACK HORNの17番目のシングルである。この「覚醒」という曲を皮切りに「裸足の夜明け」は開幕した。初めて行くライブの1曲目というのはやけに鮮明に記憶に遺る。それが大好きなバンドのライブであれば、なおのこと強烈な刺激であることは容易に想像がつく。

もちろん初回でも1曲目を忘れてしまうライブも多々あるし、そもそもどれだけ大好きなバンドのライブであっても、2回目以降は記憶がさらに朧げになることが多い。ほとほと現金だと思いつつも不思議である。

満を持して目撃した「裸足の夜明け」、1曲目の「覚醒」。当時、リリースされて間もないこの曲が堂々と演奏される様を見て、ただただ息をのんでいたと思う。

徐々に加速するように展開されるメロディーがとてもかっこいい。この速度から、大きな鳥が飛び立っていくような姿が連想される。そして無意識のうちに裏拍を取ってしまう、そんな曲である。

「覚醒」という曲はそれ自体、とても眩しい存在だ。いつ聴いたって光を照らし出すような存在であるのに、「裸足の夜明け」で見た「覚醒」はさらなる熱量で煌々と輝きを放っていたように思う。そのさまはまるで一本の矢が颯爽と放たれていくようにしなやかで、彗星のように燦然としている。

僕らはいつだって独りじゃない
ここに居るよ 未来がどんな遠くても
世界が目覚めるあの夜明けに手を伸ばすよ
溢れる本当の想い重ねて
菅波栄純「覚醒」、2008年

夜明けに向かって進もうとする彼らの姿、それはまさしく「覚醒」した姿であるようにも思う。「独りじゃない」と背中を押してもらえる心強さ。THE BACK HORNが言うと、本当にそう思えてくるから不思議だ。

ああ、大丈夫だよなって、やおら思えるようになるから、胸に明かりが灯るようだから。

ところで私はTHE BACK HORNが描く「手を伸ばす」描写がとてもとても大好きだ。この描写は「覚醒」のほかにも「空、星、海の夜」、「光の結晶」、「上海狂騒曲」、「水芭蕉」、「金輪際」、「太陽の花」などでも見受けられる。

一通りの楽曲を見て実感するのは、THE BACK HORNが表現する「手」には、溢れるほどの想いが込められたり、温もりが宿っている、ということである。さらに言えばこの「手」はTHE BACK HORNという世界に触れるための契機にも感じられる。

だから、いつもいつもあの輝かしいステージに向かって何度でも手を伸ばしてしまうのかもしれない。さながら、ここから先に広がる彼らの世界に向かっていこうとするかのように。

THE BACK HORNという世界にふれる。彼らの世界に手を伸ばす。彼らの世界へと向かっていく…これらはまるで境界を探るかのような営みである。そうしたやむにやまれぬ想いが、手からこぼれていくような気がするのだ。

こうして「溢れる本当の想い重ねて」いくことができる場、それこそきっとライブが繰り広げられるあの魂の場所であるようにも思う。

ライブで聴く音楽というのは不思議なもので、たとえそれがこれまでどれだけ聴いてきた曲だとしても、そのライブを見たタイミングだからこそ、その曲について、あるいはその曲を取り巻く事柄について改めて見えてくる地平がある。言い換えれば、心が揺さぶられるなかでハッとするようなことがある。

個人的には、そうした感動をできるだけ詳らかに言語化したいと思う。そのときの情緒だからこそ刺さる一言というのが、おそらく存在しているからだ。できるだけ余すことなく叙述したいと思う。

こうして1曲1曲について紐解こうとしている試みだって、内側で蠢く感情をどうにか言葉にしたい、という放埓な想いに端を発している。次は何が刺さるのだろうかと、期待に胸を膨らませながら。

だから、ライブには何度だって足を運びたい。エネルギーの交換が行われることはもちろんだけれど、きっと新しい景色に出会えるにちがいないから。

そういえば「覚醒」を聴くと、なんだか泣きそうになるのはどうしてだろう。悲しいとかうれしいとか、そういう心の動きから涙が出るのではない。ヒリヒリするような痛み、もとい抑えがたい熱情が心に突き刺さるから、胸が震えているように思えてならない。

生きろって 死ぬなって言う前に
あなたが必要だって抱きしめておくれ強く
同上

この原初的な主張に何度心を揺さぶられたことだろう。吐き出される素直な気持ちに痛みを覚えては、綺麗事じゃ済まさずに内側を曝け出してくれるところに何度も何度も涙をこぼしてきた。どこまでも真っ直ぐに伝えてくれるところが、本当に眩しい。

もはや「必要だって抱きしめておくれ強く」という言葉に抱きしめられているような気持ちさえする。サビから追い打ちをかけるようにして、光にめった刺しにされているかのような気分だ。

今 悲しみを越えてゆけ
同上

悲しみを越えていくことは、そう容易いことではない。そもそも越えることなど、できないとさえ思う。正直に言えば、悲しみの底にあるとき、私は音楽という音楽をすべて拒否する。たとえそれがTHE BACK HORNであっても何も聴けなくなるし、遠ざけたい気持ちすら抱くことがある。

けれども、悲しみの最中にあってどうにか日々を越えようと心が動くとき、ようやっとTHE BACK HORNをはじめとする愛してやまない音楽たちに手を伸ばすようになる。それは、光に縋ろうとするときとも言えるかもしれない。

このときに響くすべては、途轍もない安堵をもたらしてくれる。とりわけ、こうした状態でTHE BACK HORNを聴くときの情動はカタルシスにほかならない。

悲しみに出会い、悲しみを知りながら彼らの音楽に共鳴する、そうやってさらに好きになっていくことを、彼らの音楽を信じるということを、実感していくような気がする。

そういう意味で「覚醒」という曲は、痛みを共にしてくれた歌である。青い摩擦によって生じる痛みを青春と呼ぶには綺麗すぎるけれど、過渡期を共にした、貴重な曲だ。

いつの間にか、この曲が発売されてからもう15年近くが経とうとしている。個人的には「覚醒」って新しい曲だよね!!!?と言いたい気持ちが非常に強いけれど、鮮やかに年季が入る曲というのも随分と粋である。

鮮やかな思い出のなかに佇む「覚醒」、煌々と輝くさまに、これからだって何度も照らし出されるのだろう。