メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN 「世界を撃て」|颯爽と爪痕を残す眼差し

「裸足の夜明け」を見てから、トラウマとも言えるような裂傷を心に抱いた。

「裸足の夜明け」は初めて行ったTHE BACK HORNのライブである。彼らの結成10周年の記念で、かつ初武道館という晴れ舞台。あの場に立ち会えたことが途轍もない宝物である。

思い起こせばあのとき、先輩たちが出場する部活の大会をサボってTHE BACK HORNのライブに行こうと決めたような気がする。しかもその直前に珍しく発熱し、大会はおろかライブにさえ行けるかどうかの瀬戸際をさまよった。だから行けたこと自体がとても感極まる出来事だったことを懐かしく思う。

これでもか!というくらいにものすごい刺激をライブから受けて大興奮だったし、どうにかして行けたこともとにかくうれしかったし、こうして重なったいろいろな要素が相俟って「裸足の夜明け」は爪痕を残すくらいに衝撃的な事件になった。THE BACK HORNにさらにのめり込むことくらいが私に残されていた選択肢だった。これだけの条件が揃ったのだから、THE BACK HORNに没入せずにいられるわけがなかった。

このライブを体験した後に手に取ったのが『パルス』である。『パルス』は 「裸足の夜明け」の直後にリリースされた7枚目のアルバムだ。

たしかあのとき47都道府県を周るツアーを開催してくれた。興奮冷めやらぬ状態で迷うことなく地元と近隣の県のチケットを取った。東京とか大きな都市は怖くて行けなかったのはなんだか青い思い出である。

地元の小さな箱で押しつぶされて脱水症状寸前でぶっ倒れそうになるなど、大きな都市のライブよりも怖い思いをしたのは今となってはいい笑い話だ。そういえば、当時会場で知り合って、某オレンジ色のSNSで交流したお姉さんは今どうしているのだろう。

というわけで『パルス』は、THE BACK HORNを改めて好きになったときに出会ったアルバムで、THE BACK HORNに本格的にのめり込むようになったときに聞きかじったアルバムでもある。一枚一枚のアルバムにはもちろんそれぞれの思い入れがあるけれど、『パルス』は過渡期をともにしたアルバムなので、当時の青さや新鮮さが追想されるので一層込み上げてくるものがある。

どのアルバムだってそうだけど、まさしく1曲目らしい1曲目である「世界を撃て」。パルスツアーのときもライブは「世界を撃て」から幕が上がったはずだ。前奏を聴くと拳を上げずにはいられないほどに血が沸くのを感じる。

「突風が吹いて葛藤が砕け散った」*1と口火が切られるように、分厚い雨雲を突き抜ける稲光のようにこの曲は駆け抜けていく。まさに「瞬間風速は台風を越えて」*2いくような速度である。

どこまでも飛べよ 想うがままに
自由を奪い取れ 共に夜明けを目指す
菅波栄純「世界を撃て」、2008年

「どこまでも飛べよ 想うがままに」というフレーズは、「帰る場所ならここにあるから何処へでも飛んでけよ」*3と告げる「シンフォニア」にも通ずる脈路にも思われる。もしかすると、この道はもっと前から続いているのかもしれない。

そして「共に夜明けを目指す」という言葉。「裸足の夜明け」と掲げた表題を越えていくかのような意志に――しかも共に、である――改めてここで邂逅することに胸が高鳴る。彼らの旅路の軌跡をここでも目の当たりにするとき、THE BACK HORNの存在が途轍もなく大きく心強いということを再確認するような面持ちになる。

THE BACK HORNが共に目指してくれるのなら、夜を越えることもきっと怖くない。ゆっくりかもしれないけれど、自分の足で踏み出すことだってできそうな力が漲ってくる。心のエネルギーを注いで満たしてくれるひとたち、それが私にとってのTHE BACK HORNだ。

さらにいえばTHE BACK HORNは私にとって0を100にしてくれる存在である。空っぽになった心にエネルギーを満たしてくれるような、明日に向かうための糧を分け与え、背中を押してくれるような心強い存在、それがTHE BACK HORNである。

0を100にしてくれる存在、それとは対照的な100を0にしてくれる存在。まったく別の存在が陰と陽を担い、私の核になってくれたから、これらが血肉になっていってくれているから、この先のことはよく判らないけれどたぶん大丈夫、と思えるのだろうな。

さて、「世界を撃て」の勢いはサビを迎えることでさらに加速する。

孤独を暴く光 その最前線をゆけ
見つめる眼差しは真っ直ぐに 世界を撃て
菅波栄純「世界を撃て」、2008年

眼差しで世界を撃つなんて、最高にかっこいい。山田将司のような紫電さながらの目力はないにしてもギラついた眼差しで世界を撃っていく、そんな心持ちで過ごせたら、強めの私でいることができそうな気がする。

こんなふうにちょっとしたライフハックみたいな思考回路というのは案外心の支えになる。心に錨を下ろすという発想とか、心にIKKOとかアンミカを飼うとか。

どん詰まりだからこそ狭量になりやすいから、そんなときに気分転換できるような発想があるとなんだか心が軽くなったりもして、幾分かは呼吸がしやすくなっていく。自分を一点に押し込まずに引き戻すことができる。

だから、真っ直ぐな眼差しで世界を撃ちまくっていくってことを、たまには思い出せたらいい。何も変わらずとも、かっこよく一矢報いてやった気持ちになるだけで、気分は変わっていくと思うのだ。

さて、中盤の間奏を越えると、山田将司菅波栄純の叫び声がとりわけ鬼気迫るように響き渡る。言葉になりきらない感情が一点集中して込められているさまには何度も胸の奥を掴まれてきた。なぜ、彼らの叫びは――この「叫び」とは叫び声に限ったものではない――これほどまでに聴く者を掴んで離さないのだろうか。

以前も言及したかもしれないのだが、彼らの叫びを耳にすると命が切り分けられていることをまざまざと感じるから、どうしようもなく惹きつけられ、同時に痛みを感じるのかもしれない。命の存在なるものをこの叫びのなかに感じ取るから、そうやって編まれる音楽たちだからなおのこととても愛おしく思うのかもしれない。

ただ歌っているだけだとしても「叫び」だと感じてしまうのは、やっぱり彼らの熱量が底知れないからだろうか。それこそ魂の叫び、とでも言えるだろうか。

心が正解だろう いつかは笑えるだろう
果てなき悪戦苦闘の道 続いてゆく
顔を上げて世界を撃て
同上

吹っ切れたようにして颯爽と走っていくような「世界を撃て」。この曲は遣る瀬無さや葛藤を描きながらも、この曲を聴いている最中も、聴き終わったあとも、たしかな満足感と爽快感を覚える多幸感が詰まっている。「世界を撃て」をライブハウスで聴けることがとにもかくにも楽しすぎるのだ。

「心が正解だろう いつかは笑えるだろう」と簡潔に表された言葉に胸を突かれる。いつかは笑えるというそのいつかが、いつやってくるのかは解らない。が、どうか自分の心のたなびきを大切にしたいと思う。自分の心の声を素直に受け止め、心の思うがままに生きることができるのは、自分たった一人であるのだから。

たとえ悪戦苦闘の道にはまろうとも、ギラついた眼差しで世界を撃っていくのだ。手始めに週初めの月曜日をぶん殴っていこう。

*1:菅波栄純「世界を撃て」、2008年

*2:同上

*3:菅波栄純シンフォニア」、2012年