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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「野生の太陽」|既視感になった言葉

「裸足の夜明け」というライブについては、今後もおそらくことあるごとに言及するだろう。繰り返しにはなるが、「裸足の夜明け」は、私がTHE BACK HORNを初めて見たライブである。

私が「野生の太陽」を初めて聴いたのは「裸足の夜明け」だった。だから、あのときの私にとって「野生の太陽」は、名前を知らない楽曲にほかならなかった。16歳の私は、あの場で繰り広げられる光景に釘付けになって、思わず棒立ちになったまま「野生の太陽」を食い入るように見つめていた。

1曲目「覚醒」、続く2曲目「野生の太陽」。この2つの曲順と、「野生の太陽」が始まったときに会場が沸き立ったことは、今でも鮮明な残像として残っている。

ひょっとしたら「野生の太陽」をあらかじめ知っていたらもっと楽しかったのかもしれない。それでも、知らなかったからこそ血走った衝撃は、知らなかったときにしか味わえない一度きりの感動にほかならないから、それはそれで贅沢な経験をしたと思う。

知らない曲を知る楽しみ。今思えば、初めてのライブにしてその至高を味わい、その喜びを体感していたとも言える。

ところで、好きなバンドの知らない曲をライブで聴くというのは、思っている以上に印象に残る経験である。ちなみにここで言う〈知らない曲〉とは〈新曲〉のことではない。新曲もたしかに〈知らない曲〉には違いないが、ここでは、〈すでに世に放たれていながらも、ふれてこなかった曲〉を〈知らない曲〉と表現したい。

〈知らない曲だ!〉と、知らないものに対して抱く好奇心は思っている以上に強烈だから、ジリジリ焦がれるように、〈知らない曲〉の正体を紐解きたいという思いが募った。「野生の太陽」は、そういう意味でも一層思い入れの深い曲である。

朧げな記憶によれば、ライブが終わったあと、私はその名前を探すべくインターネットの海へ向かった。今みたいにSNSを使ってもいなければ、セットリストを公開したサイトがすぐに見つかるわけもない。頼みの綱は、頭に残った「ゼロになれ」という歌詞。端的なフレーズを頼りに、該当する歌の名前を探した。

どれだけ短い歌詞でも、一部分がヒットすれば、そこから目当ての曲名を見つけるまでは早かった。そこで見つけた「野生の太陽」という名前。「野生の太陽」という名前を知ったとき、改めて、ようやく出会えたような喜びがこみ上げてきたことをよく憶えている。

広がりを持って波及していく前奏が印象的だ。どこからともなく、脳内に直接届くような音。「ゼロになれ」*1という歌詞が、催眠術をかけられたみたいに脳髄に染み込んでいく。まさしくゼロになった気分で、この曲のなかに没入していく。コーヒーに入れたミルクのように、少しずつ別の物質が混ざりあっていくようなイメージ。そこはかとなく密やかに繁茂する音と声に耳を澄ます。それを打ち砕くようなサビが、痺れるくらいにかっこいい。

これまで積み上げてきた密やかさを打ち砕くようにして「壊せ誰かが作った未来はいらない」*2という叫びが心を鷲掴みにする。まるで、組み立てた積み木を一気に崩すような一部始終を目の当たりにしているかのようである。

本当に、唸り声を上げてしまうくらいに、本当に、かっこいい。

たしかに音の運び、全体的な構成、盛り上がりを見せる部分、それらすべてが「野生の太陽」を形作るにあって欠くことのできない要素である。とはいえ、「野生の太陽」を聴いて心が奪われる最大の理由は、巧みな言い回しによって歌詞が編み出されていることにあると主張したい。

なぜならば、この歌詞、端的に言って引力がすごいからだ。歌詞に織り込まれているのは、才気溢れる言葉たちである。淡々と描写される情景、次々と繰り出される言葉は、乾いた大地に吸い込む雨さながら、体内に吸収されていく。

でも、この段階で言葉が体内をめぐっていることはまだ意識にはのぼっていない。おそらく、言葉が自身の一部になっていると気付くのは、改めてこの曲を聴くときである。もっと言えば、できるだけ、臨場感あふれる状態であることが望ましい。

たとえば、「一瞬は永遠かもしれない」*3ということを、THE BACK HORNのライブを見るたびに繰り返し心に刻んできた。ライブというかけがえのない時間は、その一瞬一瞬がまさしく永遠であることを痛感させるには十分すぎる。

目の当たりにする美しさも、漂う熱気も、笑った顔も、閃光のように光るまなざしも、そのすべてが、永遠なのだと、詳らかには名状しがたくも、たしかに感じるのである。

それから「血が沸き肉踊る恍惚」*4というのも、ライブで再三見てきた光景だ。この既視感。いや、この言葉が既視感になったにちがいない。

こうしたことを一度感じてしまったら、ライブのたびにこれらの言葉を思い出すことになる。ライブのたびに、この言葉を反芻するのである。

「野生の太陽」を繰り返し味わううちに、この言葉たちが自身を形作る一助になっていることに気付く。そうやって、言葉はリアルな質感を伴って腑に落ちていく。

「裸足の夜明け」で目撃した鮮烈な情景。灼熱のマニアックヘブンでぶちかまされた一曲目。それらすべてについて、呼吸を弾ませることなしに語ることはできない。

知らなかった曲が、時間の経過とともに名前のある曲として確立され、静かに根を張る。ごく自然で、他愛ないこの営みが、一個人にとっては紛れもなく劇的な変化である。

たしかに初めて聴く、という経験を繰り返すことで自身のなかに根を下ろすのは他の曲も同じことではあるが、とりわけ「野生の太陽」は、自分のなかの立ち位置を一気に変えた、ドラマチックな曲だという意識が強い。

今思えば、THE BACK HORNが創り出す世界に未知があることは、自分にとってもどかしさであると同時に、新鮮な楽しみが残っているという至福でもあったと形容できるかもしれない。

そういうのを、楽しみの両面性が秘められている、と形容することができそうである。

知らない状態から知ることによって溢れ出す喜び、興奮があると同時に、知っていることで噛み締める喜び、狂喜もある。どちらも同じくらい、とても尊い

初めて見たときに名前を知らなかった歌は、今となってはたしかな名前とともに、自分のなかに息づいている。脈々と流れる血潮のように、「野生の太陽」が類を見ない臨場感を携えながら打ち鳴らす鼓動を、私は折に触れて知る。

*1:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

*2:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

*3:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年

*4:THE BACK HORN「野生の太陽」、2002年