メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「グラディエーター」|迸る命

ちょっと待って「グラディエーター」ってこんなにかっこよかった!!!!?すごく久しぶりに聴いたけれど、あまりにも鯔背で度肝を抜かれました。

前の曲である「蛍」にすべてを持ってかれて、完全に心ここにあらずのまま「グラディエーター」を聴いていたことを懺悔します。本当にごめんね…こんなにかっこいいのに…。己の浅はかさにも「グラディエーター」の勇ましさにもただ震えたわ。

あまりにも締まりのない始め方になってしまいましたが、改めて「グラディエーター」に照準を当てます。

聞いたことがあるようで、何だろうと思う「グラディエーター」。今回も簡易検索しました

グラディエーター」とは剣闘士を意味し、この「gladiator」という英語は、刀剣を意味する「gladius」というラテン語から派生しているらしい*1

そういえば「グラディウス」っていう名前の武器をソシャゲで見たことがある。なるほど、そういうことだったのか。

ところで「剣」っていう名前の剣って、つまりは「犬」って名前の犬みたいなものか、というしょうもない考えが脳裏をよぎったけれど、これ以上は伏せておこう。

知っているようで知らない単語はやり過ごしてしまいがちだけれど、こうして立ち止まって言葉の意味に触れることの重要さを痛感する。ちゃんと調べる癖をつけながら言葉の引き出しを増やしていこうな。

曲名をはじめ、言葉の意味を念頭に置きながらこの曲を聴くと、「グラディエーター」のさらなる奥深さを知ることができそうだ。

握りしめた剣はただ一つの誇りだった

松田晋二グラディエーター」、2008年

ここで握りしめられる剣のように、ただ一つの誇りとも言える剣のような存在が、私たちのなかにもあるのかもしれない。

私にとって、それはなんだろう。生きてきた軌跡を象徴するような、たった一つのもの。それは探し中ということで、少しの間逃避させてほしい。すぐには思い浮かばないや…。

ところで、「グラディエーター」から鯔背な風格がありありと伝わってくるのは、闘う姿が投影されているからかもしれない。剣闘士と聞くと自分自身には縁遠い存在であると感じるけれど、剣闘士というのは、日々を生き抜く我々の象りとも考えられるのではないだろうか。

日々を生き抜くという闘いには、大前提として命が必要である。もっと言うとこの命が明日を選ぶということが、何よりも大切である。

グラディエーター」では、未来を選んだ命に出会う。

燃える生命の花

揺れる衝動のまま

たぎるエナジー

そう命はたしかに未来を望んだ

同上

「燃える生命の花」には「太陽の花」にも通ずるものがあるのかもしれないと、ふと感じた。「グラディエーター」も「太陽の花」も作詞は松田晋二だから、と思うのは短絡的すぎるけれども。

とにかくかっこよすぎるサビ。こんなにギラついて生きることを欲している姿に感銘を受けずにはいられない。未来を選んだ命とはすなわち、それを引っ提げて今もこうして生きている俺たちだと捉えることもできそうである。

「揺れる衝動のまま」とあるように、包み隠さずに人間臭さが現れているところがTHE BACK HORNらしいと、ひしひしと感じる。

汗水垂らさず、涼しい顔をしながらひょうひょうと生きるのではなく、時には顔をゆがめ、歯を食いしばり、苦悩にあえぎながらも、それでも生きていく姿に私はどうしようもなく心が動かされる。

それを体現しているのが、THE BACK HORNだと思えてならない。彼らの生き様は、彼らが生み出した楽曲たちにもきっと刻まれている。私たちはこうした生き様に魂を共鳴させ、彼らの楽曲に己の軌跡も刻んでいくのだろう。

叫ぶ欲望さえも

消える静寂の闇

響く魂

そう命は微かに呼吸を続けた

同上

私は「生きる」とか「命」の描写にとても弱い。

ただ生きることが本当にうまくできない私は、THE BACK HORNが繰り広げる「生きる」という表現に何度も何度も心を打たれてきた。

彼らが歌うような視点を取り入れることができれば、これまでとはちがったふうに世界が見えてくるかもしれない。もっと言えば、世界を分節し、切り拓くことすらできるかもしれない。

そうした気持ちが自分のなかを貫いて、今となってはたしかな軸にもなっている。

THE BACK HORNという他者をとおして、自分だけでは気付くことのできなかった発想が自分のなかに組み込まれていくことがとてもうれしい。

ここで少しだけ、昔の話をしてみたい。

一度だけ、私は自分の心音を聴診器で聞いたことがある。自分の心臓の音を明瞭に聞ける機会なんてそうない。当時感銘を受けたのは、至極当然のことではあるけれど、私が消えたいと思っても心臓はちゃんと鳴り続けてくれている、ということだ。

臓器に対して健気、というのは誤りかもしれないけれど、その実私の心臓は健気にただ鳴り続けていた。この音をじっと聴いたときに、死んではいけないな、という気持ちが芽生えたのを今でも憶えている。

自分の心臓に対して慈愛と言えるような感情を抱くのも不思議な話だけれど、この出来事は、まるで次の歌詞みたいに「生きる意味」の一つを見出したかのような契機だった。

空に映る影 あなたの顔

生きる意味が今溢れ出すよ

同上

猛々しさから一変して、やさしい歌声が広がるところがとても印象的である。

歌詞にあるとおり、生きる意味が溢れ出すと言わんばかりに、「グラディエーター」は紡ぎ出されていく。

遠く地平の彼方

照らす太陽の下

歩き出した

この大地を強く踏んで

同上

ふとここで煌々と赤く燃え上がる炎が目に浮かぶのは、命を燃やしながら生きているさまが連想されるからであろう。

ギラついた太陽が照らす大地をこの足で歩いていく姿は、「ひょうひょうと」の延長線上にあるようにも感じられる。この歩みはきっとまだ途中なのだろう。どこに向かうかは解らない旅路の途中なのだろう。

「さあ命が示した生きる場所目指し」*2て行くのは、私も例外ではない。

THE BACK HORNがいたら、たぶん大丈夫だ。行ける限り、迸る命を携えながら歩を進めることができるはずだから。