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THE BACK HORN「無限の荒野」|死場所を探す旅路

どの曲もTHE BACK HORNを代表する曲だと高らかに主張したい気持ちがある。このことを前置きがてら語るとしても、「無限の荒野」がTHE BACK HORNを代表する名曲の一つであることは間違いないだろう。

「サーカス」、「走る丘」、そして「新世界」という濃密で深遠なる世界を見てきたところで「リムジンドライブ」という極めてハイな曲を聴く。その勢いは留まることを知らず、間髪入れずに彗星のような煌めきと速度で展開されていく曲が始まる。

それこそが「無限の荒野」である。

音源で「無限の荒野」を聴くときもその勢いは凄まじく、生き生きとしながらその形相を輝かせている。しかし、この曲がライブで披露されると一層映えるのも事実なのだ。

ライブのとき、この曲はまるで生きているかのように躍動的に打ち出される。

新たな息が吹き込まれると同時に、「無限の荒野」はとてもにぎやかに勇ましく大地を踏み鳴らしていく。

私たちはこの速度に追いつこうと必死になる。

これは、眼前に広がる情景に一心にのめり込み、「無限の荒野」という享楽を喰らう瞬間である。

「無限の荒野」は「漢」と書いて「おとこ」と読ませるような雄々しさと猛々しさの塊であり、このうえなく勇ましい。

それなのに、この曲をやけにキラキラしていると思うのは、20周年の武道館でこの曲を聴いたときの情景を思い出すからかもしれない。

あのとき、キラキラのテープが空から降ってきた。アンコールの最後でもあった「無限の荒野」。言い換えればこの曲は、21年以降の彼らの「これから先」を新たに刻み始める最初の一歩でもあった。

あの場で噛み締めた「『否、まだだ、ここでは死ねない』」*1という思いは、THE BACK HORNにとっても、あの場に同席した観客にとっても、字面が示したとおりの堅固な意思だったにちがいない。

さらに言えばこの言葉は、20年という時間を貫いて彼らが持ち続けてきた主張であって、この先を照らすたしかな灯台でもあるのだろう。

燦然と輝く言葉が、ここには存在している。

THE BACK HORNは様々な楽曲のなかで枚挙に暇がないほどに名言を叩き出す。「無限の荒野」はその最たる例で、刺さる言葉が畳み掛けられるように続いていく。

「屍踏み散らして 尚も又斬る」*2という口上から火蓋を切る「無限の荒野」。

この始まり方からも分かるように、この歌の主題に据えられているのは、命であり、生きるという戦場のことである。が、印象的なのは、重くのしかかる主題とは対照的に「無限の荒野」という曲はとても軽やかで、彗星のように颯爽としていて清々しい、ということである。

魂が乾いてゆく 血は乾かぬのに

THE BACK HORN「無限の荒野」、2001年

言葉の綾であることをわかっているうえで、こうしたことを日常生活のなかで感じることがある。斬られて血まみれになる状況に陥ることは、そうあることではない。が、この「魂が乾いてゆく」という感覚がやけに生々しく伝わってくるのはなぜだろうか。

考えてみれば「魂が乾いてゆく」という表現は非常に言い得て妙である。このことによる不快感や違和感は、自分という一つの軸が揺らぐときに意外と実感しやすい。

たとえば「自分」を抑圧するとき。「こうするべきだ」という枠組みに自分を無理やり押し込もうとするとき。なれもしない何か・誰かになりたいと渇望するとき。

畢竟私の場合は、自分の意に反して自分を何らかの鋳型に流し込もうと試みるとき、たしかに「魂が乾いてゆく」のを感じる。これがどれだけ些細なことであっても、その積み重ねによって生命が徐々に侵蝕されていくことは否めない。

「否、まだだ、ここでは死ねない」

同上

「無限の荒野」は、生命をこれほどまでに勁く打ち立て、生命を主張し、生きることをまっすぐに肯定する歌である。

櫛風沐雨のような生活に涙を流すことはあれど、そんなところが己の死に場所であるはずはない。これは断言できることである。

たとえばTHE BACK HORNのライブを目撃したとき、その多幸感のあまり「ああ、もう死んでしまってもいいかもな」という思いが脳裏をよぎることはあれど、その思いはあっけなく払拭される。憚らずに言うと、幸せな瞬間を過ごすと、それ以上の幸せを求めてしまうくらいには際限なく強欲で現金である。

しかし、そのどれもが生きているからこそ味わえる感覚であり、渇望できることでもある。

彼らのライブを観たことで、まだ、こんなにも素晴らしい風景を見ることができると思えば―――あるいはまだ生きていたいと思えるならば―――、生命を愛おしく、名残惜しく思う機会としてこれ以上にお誂え向きなものはない。

強欲ついでに言えば、幸せな瞬間に死んでしまいたい、という気持ちを否定することはきっとできないだろう。それでも、現金ゆえに、また会うために生きよう、明日もまた生きよう、そんなことを繰り返し思いながら過ごすことで、気付けば明日は「また会う日」につながっていくように思うのだ。

「無限の荒野」の高らかな主張は次の節でも一層声高に強調される。そう。あの力強い魂の宣言である。

我 生きる故 我在り

同上

この想いに託されているのは、紛れもなく生きるために生きるということであろう。たしかに「生きるために生きる」というのは単に同じことの繰り返しであって、一見すると何の意味も示さないように思える。が、この原初的な「生きる」ということが腑に落ちることで、ようやく肯定できる生があるように思えてならないのだ。

ややもすると、何か有益なことをしなければならない、と駆り立てられる日々のなかで、有益であろうとしない姿勢に身体のこわばりが和らぐことは多々ある。「生きるために生きる」という主張が無益とはまったく思わない。が、同語反復的な言葉だからこそ、冷え切った心を温めてくれもするし、「それだけでいいのか」と肩の荷が下りることもあるだろう。

そういう意味で考えれば、「我 生きる故 我在り」とは、生きていくことを肯定する端緒でもあるにちがいない。

青く光る流星が俺の空を這いずり

青く光る月だけが

俺の行方を知っていた

同上

行く手に広がるのは、牧歌的な景色とはあまりにも対照的な「無限の荒野」である。

それはひょっとすると行く手を阻むくらいに荒れ果てているかもしれないし、平坦な道など、続いていないかもしれない。が、未墾の地を踏みしめるとき、「青く光る流星」は他の誰でもない「俺の空」を這いずっていて賑やかに違いないことを、「無限の荒野」はいつでも教えてくれる。

つらいと思うのは自分の心の動きだから、その度合いなど気にかけることはない。つらさの底に穴があくほどの深い悲しみでなくたって、かまいやしない。今、このときにつらいと感じたことがすべてである。

その度合いがどうであれ、私たちは頑なに叫ぶべきなのだ。「否、まだだ、ここでは死ねない」と。そして何度も反芻するのだ。「我 生きる故に 我在り」ということを。

*1:THE BACK HORN「無限の荒野」、2001年

*2:同上