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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「世界樹の下で」|痛みとの共存

世界樹の下で」のMVを見る。とても暗い表情をしている3人が頭から離れない。それから、そうした表情からは想像できない情感の発露からも、目が離せない。色々な意味でこの曲に釘付けになってしまうのは、暗澹たる表情を浮かべる彼らを遠くの画面に見据えるからか、はたまた、こみ上げる激情に呑まれそうになるからか。

何はともあれ、この歌に、途轍もない引力で惹きつけられている。たしかなのは、「世界樹の下で」という歌が、正鵠を射るようにしてこの心を穿ったということである。

今にも泣き出しそうだ、と思ったのは、この曲に対しての印象であると同時に、聴き手である自分も同様であることに気付く。

痛々しいまでに狂おしく、心の底から愛おしい。クソデカ感情なしに、「世界樹の下で」を聴くことはできない。

遅ればせながら、「世界樹の下で」は、THE BACK HORNの3枚目のシングルであり、『BEST THE BACK HORN』にも収録されている曲でもある。

名実ともに名曲中の名曲だと誇示したい気持ちが高らかにあるが、THE BACK HORNの楽曲は、ご存知のとおりどれも名曲中の名曲である。オタクは大抵こう言う。だから、名曲だとつよく主張したい一方で、それだけでは何も語ることができていないという苦悩にぶち当たる。

だから懲りずに綴ってみたい。「世界樹の下で」という曲について。

押さえつけられたかのように胸が詰まるこの歌は、主題と言葉が融合して腫れ上がり、今にも破裂しそうである。重いテーマが重厚な音と一糸まとわぬ言葉とともにぶつけられるこの曲は、無防備な心で受け止めるにはあまりにも威力がありすぎる。が、同時に思うのは、それこそ「世界樹の下で」という曲の核心である、ということだ。

前曲である「野生の太陽」が終わるさまは、まさしく収束という言葉に等しい。音が吸い込まれていくことで、その収束は一層際立っているように感じる。最後の最後まで、「野生の太陽」の惹きつける力は、衰えることを知らない。

この状態で次の曲、すなわち「世界樹の下で」が始まるのだから、なおのこと、はじめからこの前奏に聞き入ることになるのは必至だろう。無防備のまま、もっと言えば心を開いた状態で、「世界樹の下で」を一心に聴くことになるのだ。

ただでさえ心を揺さぶるこの曲。武装解除した状態で聴く「世界樹の下で」は、もはや危険ですらある。

事あるごとに感じているのは、「世界樹の下で」のなかに溶け込む純粋さが、濃度を増すことによって勁さだけでなく、儚さをも醸成している、ということである。これがどういうことなのか、もう少し、説明させてほしい。

世界樹の下で」を聴いていて感じずにはいられなかったのは、つよい方が、脆いってことがありえる、ということだ。たとえば、乾麺はゆでたあとの麺よりも折れやすい。ゆでたあとの麺は千切れやすいけど、折れることはない。薄いガラスも、薄い氷も、やっぱり割れやすい。

とはいえ、この組み合わせが成り立つのは、薄さや細さ、という一般的に脆さの要素が、硬さという要素とセットになっているときに限られる。直径1メートルの鉄の棒はどうしたって折れない。明らかに堅固なものは外す必要がある。

ここで照準を合わせたいのは、あくまでも儚さを孕んだ勁さのことであり、直径1メートルの鉄のように見るからに強靭なものではない。「世界樹の下で」における〈勁さ〉は、どこか危うげな佇まいをしていて、強靭という言葉とはかけ離れたところに位置している。

では、この〈勁さ〉とは何か。

世界樹の下で」のなかで紡ぎ出されるのは、まるで拳を握りしめ、奥歯をかみしめているような汲々とした状態のことではないだろうか。笑おうと思ってもきっと笑えない胸の奥で、わずかな震動でコップから水が零れ落ちてしまいそうなくらいに張り詰めた心が、この曲のなかで痛々しいまでに描き出されていると思えてならない。

押し広げてみれば、これは〈勁さ〉というよりもむしろ、しゃちこばった心、どうにもほぐれず拳を握りしめた心と言った方が近しい表現かもしれない。とはいえ、そうした状態で紡がれる歌を〈勁さ〉の表れと思う心を止められるわけもない。

切実さ、ギリギリのところで保たれている均衡、溢れ出す感情、願い、希望、痛み。それはまるで、今にも泣き出しそうな祈り。混ぜようと思っても混ざりきらない心がギリギリと上がる悲鳴こそ「世界樹の下で」という歌。

その悲鳴を聴くことになるから、「世界樹の下で」を聴くと、切ない気持ちで胸がいっぱいになるのかもしれない。

作られた自由のなかを、それとは知らずに泳ぎ、生きながらえ、殺し合い、人を愛し、罪を犯す。これが、この曲のなかだけで繰り広げられる事柄ではないことに、改めて戦慄を覚える。

今、生きているこの世界が「作られた自由」*1であるかは知りえることではないけれど、「星がいつかは命を貫き みんな幸せな星座になれたら」*2という祈りが心から放たれた言葉であることを思えば、この祈りをこそ、宝物みたいに心の底にしまっておきたい。

思いが込められた歌を聴いたときに、心が動く。この情動が、「本当」の想いなるものだと自負している。

何が本当で、どれが偽物で、それを明確に嗅ぎ分けられているかはさておき、いずれにしても、THE BACK HORNを聴いているときは、好きな音楽を聴いているときは、「本当」の気持ちが自分のなかにちゃんとあって、心が正常に作動することを確信できる。

歌をある種の呼びかけだと見立ててみよう。そのとき反応する心の動きとは、すなわちたしかな応答であり、共鳴であり、共振であり、呼応である。

世界樹の下で」という歌を聴いて心が動いたという事実、それはまだ大丈夫だと実感できる証左でもある。

*1:THE BACK HORN世界樹の下で」、2002年

*2:THE BACK HORN世界樹の下で」、2002年