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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「走る丘」|生きる覚悟を賭して

精神状態や精神の成熟度合いによって歌の響き方はそれぞれ異なると個人的に思っている。これまで繰り返し聴いてきたはずなのに、『甦る陽』が最も響いているのは今この時の自分であることがやけに感慨深く、不思議な面持ちである。

『甦る陽』を聴いていると、心に新たな炎が灯るような感覚を覚える。新たな命が芽吹くように生き生きと愛が繁茂する。知っていたはずなのに、本当は何も知らなかったのかもしれない。深く慙愧に堪えない思いになるとともに、深淵に潜り込める可能性に歓喜する。

『甦る陽』の2曲目である「走る丘」。タイトルだけを耳にすると、存外シュールである。

これは自分が転倒すると世界がひっくり返ったように見える錯覚を示しているのだろうか。そこに泰然とある丘が走るというのだから、もしかすると自分は遅々として一切進めない状況に囚われている状況に陥っているのかもしれない。

生きる、ということにがんじがらめになって動けず、あまつさえ立ち止まってしまうこと。それを通り過ぎれば笑い話にもなるが、渦中にいるときは笑えるどころか拳を強く握りしめ、苦虫を噛み潰したように渋い顔をするのが常である。

そして何よりも「極から極へと移り変わり行く心の明暗」*1という言葉の破壊力。まごうことなきパワーワード、もっと言えばマントラから幕を上げる「走る丘」があまりにも熱くて、丘が走る幻影が見えそうである。

明滅を繰り返すように目まぐるしく変転する情緒を扱うには、私の熟練度は随分足りない。出だしから一言一言噛み締めるように歌いだされる時点でもはや忘我の境地に至る。

こんなにも歯ァ食いしばって生きていこうとするさまを目の当たりにして心が動かないわけがない。

日々生きることに苦悩を浮かべているところに共感を覚えるのは些か横暴だけれど、扱いきれない厖大な熱量に藻掻き苦しみ、ひたすら呻吟しているさまには心底感じ入るものがある。

「弱さはもろくも明日の光すら閉ざしてしまうのか」*2という問いは、真綿で首を締めるように侵蝕していくようにも思う。光を受け取ることにも、少なからず勇気が必要だ。

たとえばかじかんだ手をお湯で温めようとすると、ぬるま湯でさえ熱く感じる。夜目には間接照明だって眩しい。

これと似ていて、かじかんだ心を温めるやさしさ、あるいは影を照らす光というのは、やさしすぎたり明るすぎると劇薬よろしく火傷しそうにもなれば、目がつぶれそうになるほどに目を眩ます威力を秘めている。

そうして拒絶したやさしさや光が、これまでにどれだけあっただろう。それと同じ数だけある「過ちと過去を悔やむ夜」*3をどんなふうに過ごしてきたのだろう。

そんなことは考えるだけ野暮だと理解していながらも、行間に潜む明滅する心の存在が気になって仕方ない。「全てを捨て 裁きを待つだろう」*4と自暴自棄に吐き捨てるところにも鮮やかなまでに胸が引き裂かれそうになる。

走る丘 かき消す記憶

涙浮かべて今、生きよう

生きようとも 生きるとも

THE BACK HORN「走る丘」、2000年

彼らが描く生の歩みはこの部分にきっと収斂しているとみて間違いない。「涙浮かべて今、生きよう 生きようとも 生きるとも」と自分を説き伏せるようにして、どうにか生きることを選ぶところがこのうえなく美しい。泥臭く、人間臭く、そして何よりも勁い。この逞しさは繰り返し銘記したい姿である。

このほかにどれだけの言葉を重ねようとも、全ての帰趨するところはこの節であると確証を得るほどには、この言葉がTHE BACK HORNの軸に据えられるとさえ思う。あらゆる想いが凝縮されたこの言葉を、何度でもそらんじよう。いつだって口ずさもう。そして、己の血肉としよう。

ところで、「失う事の怖さに怯えてそれを抑え込む」*5という思いを抱くのは、誰しもが一度は経験していそうである。同じ目線に立って自身の経験を紐解くような表現が見受けられるところからも、勝手ながら親近感がわいて一層愛おしいと思う。

彼らもやはり人の子で、平等に地獄を飼いならそうと躍起になったり、藻掻いている。そしてその軌跡は、音楽のなかに刻まれている。

猛る声この身を乗せて

時の果てまで 遠く飛んでゆけ

意味あるものを灰にして

同上

「猛る声」と表現するところが痛々しくもあり、切ないとさえ思う。「意味あるものを灰にして」しまうところもチリチリと胸が痛む。

「走る丘」を喉の底から叫び歌う声はまさしく「猛る声」に等しい。その身に乗せた猛る声とは、すなわち自重をすべて乗せた声であり、魂が宿ったどっしりとした声のことであろう。

たしかに、いわゆる「シャウト」と称される歌声は数多くある。が、この「猛る声」を聴いていると、山田将司が叫ぶそれには、単に「シャウト」と呼ばれるものよりも、一層深いところで叫ぶ魂が存在していることを肌で感じる。声が際立たせる魂の存在から、目が離せない。

喜び悲しみ 嘆く日々

おお全てを捨て

裁きを待つだろう

同上

心の明暗が「極から極へと移り変わり行く」ことを繰り返し強調するかのように、ここでは「喜び悲しみ 嘆く日々」に触れられている。個人的に痛感しているのは、あまりにも激しく変動する情緒の手綱をどうにか引きたいと思えど、情緒に翻弄される日々にお手上げであるということだ。

とはいえ、この情緒があったから否応なしに惹かれるものもあったにちがいない。正直なところ、その筆頭がTHE BACK HORNだったと思いたい節もある。

最後の最後、念を押すように繰り返される覚悟を秘めた言葉たち。私ももう一度、否、何度でも繰り返したい。そして窮地に陥ったときこそ、どうにかこの光を思い出したい。自分自身を説きつけるように、言葉を食むように。

涙浮かべて今、生きよう

生きようとも 生きるとも

同上

*1:THE BACK HORN「走る丘」、2000年

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:同上