メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「甦る陽」|情緒をそっと撫でる歌

このアルバムと同じ名前を持つ「甦る陽」。この曲は、肩の力が抜けるように、やさしくて朗らかな前奏が印象的である。「甦る陽」を聴いていると、とても穏やかな気持ちに包まれる。飾ることなくこの曲に浸ることができるし、思わず口ずさみたくなるし、音楽に合わせて身体が拍を取り出しもする。

THE BACK HORNにしては珍しく、というと語弊があるかもしれないが、「甦る陽」は、まるごと穏やかな曲だ。爽やかな夏の風が頬を掠めるように、情緒をそっと撫でてくれる。この凪の時間がとても愛おしい。

THE BACK HORNの楽曲はことごとく情緒を揺さぶってくるので、ほっと息をつける歌というのはある意味で貴重に感じる。

もちろん情緒を搔き乱されるというのも彼らの音楽を聴く醍醐味ではあるけれど、ふかふかの毛布に包まれるように穏やかな気持ちになれる曲を聴くことだって、至極の贅沢であるように思うのだ。

「甦る陽」には、夏の面影が色濃く表われているわけではない。事実、歌詞のなかで夏を明言する言葉は「静かな夏の日」という一節のみである。が、この一言があるからこそ生まれる新たな奥行きがあるような気がしている。

個人的な嗜好が含まれている可能性もあるけれど、実感しているのは、季節が付け加えられることで深まっていくイメージや、立ち現れる思い出はきっとある、ということである。

なぜならば、生きているかぎりは、めぐる季節に必ず出会うからだ。

たしかに去年と同じ夏は存在しないし、20年前と同じ冬ももうやってこない。それでも、同じ季節がやってくることで思い出される風景や強調される出来事は、記憶の片隅にきっと存在していると思えてならない。

数珠つなぎになって連想される思い出のなかに、きっと季節という概念も組み込まれているのだろう。

あれは「静かな夏の日」どころか盛大な夏のお祭り状態の熱狂天国だったけれど、「甦る陽」を聴いた夏をとても懐かしく思う。こんなふうにして、記憶と季節がセットになることは個人的にはままあることである。

話を元に戻そう。

悲しい歌を届けている人が

死んでいた日曜の教会 静かな夏の日

THE BACK HORN「甦る陽」、2000年

「悲しい歌」という表現が、とてもTHE BACK HORNらしい。たとえそれがどれだけ明るく楽し気な歌であっても、彼らが奏でる楽曲の原点には、きっと「悲しみ」がある。

悲しみを拒絶し、悲しみと同席し、悲しみを受け容れ、悲しみを越えるなど、「悲しみ」と取っ組み合いをしながら関係していくことで、ままならないことはもちろんあるとしても、この感情を飼いならすことができるようになっていく。

悲しみを肯定する姿は、THE BACK HORNの楽曲のあちこちに散りばめられている。それらを慈しむよう悲しみに寄り添うことができればと、自分自身も切実に思う。まずは拒絶が先だと、苦笑いをしながらも。

世界の終わりを見に行きたいな

風に願いを絡ませて

世界の終わりを見に行こう

同上

ここで願いを絡ませているのは、夏の風だろうか。概念上の夏は、なぜこれほどまでに美しいのだろう。昨今の夏は酷暑がすぎるので、爽やかな風がコンクリートジャングルに棲息しているとは思えない。

が、「甦る陽」に出てくる風は、願いを託せるくらいには軽やかで、意気揚々としているのだ。だから、とても心地よく感じる。

軽快な気持ちのまま「ラララ」と一緒に歌うことができるとしたら、どれだけ幸せだろうか。

文字に起こすと少しばかりシュールだけれど、朗らかに微笑みを広げられる「ラララ」という言葉には、なにか特別な力が宿っているように思えてならない。

揺れる坂道 誰のことを思い出す?

枯れ果てて涙 懐かしき花 赤く燃ゆる

同上

「揺れる坂道」とあるから、きっとこれは陽炎でゆらめく坂道のことなのだろう。ここにも、そっと夏の面影が見て取れる。

「甦る陽」が具体的に何を指し、どのような現象を意味するのかは、この曲のなかでは明示されていない。が、この節がその一端を担っているように思う。

たとえば、「懐かしき花 赤く燃ゆる」という部分。

「赤く燃ゆる」「懐かしき花」とは太陽のことだろうか。

それとも、もしかすると、「懐かしき花」それ自体が太陽に、もっと言えば夕日に照らされることで、赤く燃えているように見えた情景の投影かもしれない。

それでは、「懐かしき花」とは何を指すのだろうか。

花と言えば桜が思い起こされるが、季節は夏だから、桜ではない夏の花である可能性が高い。やはりここは夏の花として人口に膾炙するヒマワリだろうか。

そういえば、『甦る陽』のジャケットに描かれているのは十中八九太陽であろうが、ヒマワリに見えなくもない。

これは全部想像だが、陽炎で揺らめく坂道の途中、そこにはヒマワリが咲いていたのかもしれない。夏の風物詩でもあるヒマワリが。

舞い上がれ空 時の風が導くだろう

今は雨我を撃つ いつか又 花燃ゆる頃に

同上

「時の風が導くだろう」とあるように、明日は明日の風が吹くという言葉を思い浮かべながら、楽観的に生きてみるのもいいかもしれない。生きていると「今ここ」に自分を閉じ込めてしまいがちだからこそ、「今ここ」から視点を外し、少し先に意識的に目を向けることも肝要である。そうやって、肩の荷を少しでも下ろせるのなら上出来だ。

改めて、「花燃ゆる頃」を、陽に照らし出される頃、という意味に捉えなおしてみよう。

そうすると、たしかに今は雨に打たれている最中かもしれないが、陽の光に自身も照らされるのを心待ちにする希望が、ここには差し挟まれていると思えてくる。

「甦る陽」のなかで展開されているのは重い希望でもなければ、執着でもないところがいい。とても楽観的だから、身軽でポップである。だからこそ、気兼ねなく「ラララ」と口ずさみながら純粋に楽しめるのかもしれない。

ともすると「今ここ」に縛られてしまう。だからこそ、少しだけ先のことに目を向けてみよう。

突拍子もなく先のことでなくてもいい。たとえば、1時間後のことだっていい。打ち付ける雨が止むこととか、今のこの状態が終わることとか、何か気が晴れることを少しでもいいから思い浮かべてみよう。

すると「今ここ」に沈みかけていた自分の輪郭が、少しずつはっきりとしてくるにちがいないから。