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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「ひょうひょうと」|人間らしい感情の集積が描き出す葛藤

「ひょうひょうと」のひょうひょうとしていないところが好きだ、と言う言葉を聞いたことがある。私も心から同意する。『人間プログラム』のなかでも頭角を現す「ひょうひょうと」は、『BEST THE BACK HORNⅡ』の2枚目に収録する曲をアンケートで募った際に堂々の第一位を獲得した。かくいう私も一目散に「ひょうひょうと」に投票したことを憶えている。圧倒的な存在感、もとい閃光を放つ「ひょうひょうと」。何度でもこの曲名を呼びたいと思う「ひょうひょうと」。

生きることとそれに伴う痛み、そしてそこから生じる葛藤が鮮やかに描き出されるこの曲は、驟雨のような勢いを携えながら今ここで抱える迷いを一掃してくれるような心強い存在である。簡潔に示すならば「ひょうひょうと」はこのうえなく潔く、際立って凛々しい楽曲である。
「光の中行くのなら心には三日月を」*1と「闇の荒野行くのなら心には太陽を」*2という対比がとても眩しい。光の中にあって浮立つ心に静謐な三日月を携えれば、そわそわする気持ちは幾分か鎮まって地に足を付けられそうな気がする。それは言わば心に錨を下ろすような安定感があって、繰り返し銘記したいと思うことである。

翻って闇の荒野をさまようとき、心に太陽を照らすこと以上に心強いものはない。どうやって照らすことができるのだろうか、という最大の難問に対して答えを出せてはいないけれど、たぶんこれはそう思うことによって、幾分かマシになるおまじないのようなものだと思う。このフレーズそれ自体が太陽さながらの輝きを放っていることはたしかである。
「ひょうひょうと」には、何かが吹っ切れたようでいなせな気風がある。失うものは何もないからこそどこまでも行ける、と思わせるような割り切りがあって非常に小気味好い。こうした姿勢は「力まかせ信じて強く踏み出せ」*3という歌詞にも表われているように感じる。

こんなふうに心に響いたフレーズなるものを挙げようとすると、おそらく歌詞の全文を引用することになってしまう。とにもかくにも「ひょうひょうと」は、心に刻みたい言葉の集積である。例えば次の歌詞。

守るべきは何なのだ
正義でも他人でもなく
体刻んだ夜の痛みかもしれぬ
THE BACK HORN「ひょうひょうと」、2001年

こんなふうに過去を肯定する言葉を紡げるようになりたいと切に願うと同時に、この言葉には繰り返し救われてきたことを思い出す。まずは何よりも誰よりも、自分の痛みをただ大切にしてあげてたらいい。そうやって肯定してもらえることはそうあるわけではない。そもそも痛みというのはたいていの場合思い出したくもない事象で、思い出すこと自体が痛みを伴う行為でもあるだろう。

ここで言いたいのは、無理やりにでも痛みを思い出せ、ということではない。ただ、痛みを受けてきたのはほかでもない自分自身であるという事実に光を当ててあげること、言い換えれば私だけが受けた痛みの存在を肯定すること、自分自身に「痛かったよね」と言ってあげること、自分を労うこと。これも自分を受容することの一つの形態だろう。

自分の痛みだからこそ蓋をしたり、見て見ぬフリをするなどして通り過ぎてしまうことも往々にしてある。だからこそ、ほかでもない自分自身が自分の痛みに寄り添うことができれば、心のもつが緩和されていくことも否定はできないだろう。そういう期待を私は胸に秘めている。
「ひょうひょうと青空を漂う雲は魂か」*4という語感の良さに思わずこのフレーズを声に出して読みたくなる。が、その前に脳内に響くのは山田将司が腹の底から叫ぶ声なので、淡々と読み上げるのは心のなかだったとしても少し難しい。青空を漂う雲を魂と見立てる情緒があまりにも粋で、それがなんだかとても切なくて、その深遠さに呑み込まれそうだ。

それはまるで青空を見ていると青空に落ちていくのではないかと錯覚させるような感覚にも似ている。切なさも虚しさも、「ひょうひょうと」が秘めているエネルギーによって昇華されていくような気がする。それはこの曲を聴いた後、心に確かに残る無の存在がその証左である。そういう意味でもこの曲はたしかに「無情を切り裂いて」くれよう。

生きることに飢えている
だから生くのだろう
同上

この主張は、おそらくTHE BACK HORNのなかを貫く一つの思想ではないかと思う。前向きな諦観を引っ提げているとも取れるような姿勢、それはたとえば「死にゆく勇気なんてない それなら生きるしかねえだろ」*5と己を奮い立たせもする「赤眼の路上」にも滾々と受け継がれているような気がする。

前向きな諦めを携えながらも、心は突き動かされ生きることを欲している。こうしたやむにやまれぬ衝迫が聴く者の心にも揺さぶりをかけていく。このように心を震わせるような切なる思いが涵養されたことで生まれゆく音楽を糧にして生きていけると確信するのは私たちこそで、彼らの音楽に呼応する魂の存在を心から愛おしいと思う。こうして胸が震える経験は己のなかに確実に蓄積され、ゆっくりと根を下ろしていくにちがいない。
ところで「赤子」、「赤き血」、「赤き陽」という表現があるように、「ひょうひょうと」に登場する赤にはさながら生命が息衝いているようである。もしかすると命の躍動はこの赤という色に集約されているのかもしれない。そして赤と対照的な色である青空には、魂かと思わせるような雲が漂っている。

命という物理的なものと、魂という精神的なものがそれぞれ赤と青に秘められていると思うと、「ひょうひょうと」は歌詞カードに描かれている虹色のようにこのうえなく鮮やかな色彩を帯びている。色とりどりに描かれるのは、それぞれが営む日々、もとい人生も例外ではないはずである。

こうして「赤き陽のもとで」*6命は繰り返し紡がれていく。喪われもすれば新たに生れもして、今日がまた続いていく。痛みや葛藤が折り重なりながらも続いていく今日を重ねたいつかの未来に交点があると信じて「ひょうひょうと」生こう。

*1:THE BACK HORN「ひょうひょうと」、2001年

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:THE BACK HORN「赤眼の路上」、2003年

*6:同上