メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「人間」|生命を端緒とした思想

かじりつくように歌われるところが印象的な「人間」。歌詞に登場するカタカナが醸し出す雰囲気は、無機質で冷たく、機械的な印象をも与える。指示された言葉をロボットが画一的に出力するみたいに、なぞられた言葉がここでは吐き出されているかのようだ。

情感不在を助長するのは、カチカチと鳴る楽器たちだろう。不穏さと怪しさを宿しながら、流れるような音色が響く。

これらと対照的なのは、やはり山田将司の歌声だ。無機質で冷たい言葉に命を吹き込むように、彼の声にはたしかな温度が宿っている。

「人間はカナシイ」、「ハカナイ」、「ミニクイ」と来て、最後に「キレイダナ」*1と形容するところがとても奥ゆかしい。カタカナ表記が醸し出す覚束なさやたどたどしさは、不完全な人間の比喩にも取れる。

たしかに、争いごとが生じれば目も当てられないような本性を見ることになる。まさに「ミニクイ」と言って差し支えない。

さらに、生まれた時点で死に向かって進みゆく我々人間は「カナシイ」存在であるとも言えるかもしれない。

長くともたかだか100年弱の寿命である人間は、46億年という歴史を持つ地球、あるいは138億年も前に誕生した宇宙からしてみればあまりにも矮小で、脆弱で、「ハカナイ」存在にちがいない。

とはいえ、この世界にある人工物のすべては過去の人間たちの偉業によって造られてきたものだ。それに身近なところだと、寺山修司が言うように人間は「いちばん小さな海」*2をこの目に湛えることもできる生き物である。

これらすべてを鑑みたときに、「人間はキレイダナ」という至極シンプルな感想に収斂されていくのかもしれない。

この「人間」という曲についてどうしても書きたかったのは「汚れなき涙」という曲がある種の応答としても捉えられるのではないか、ということである。

「汚れなき涙」は『アサイラム』というアルバムに収録されている。ちなみに『アサイラム』は『パルス』から2年の歳月を経て2010年にリリースされたTHE BACK HORNの8枚目のアルバムである。

「汚れなき涙」がある種の応答になっていると思ったのは、もちろんこの曲を聞いてからである。『パルス』で「人間」を聴いたときには、サビのこの部分をただ痛々しく噛みしめたに過ぎなかった。だって、こんな歌詞が綴られているのだから。

産まれ落ちたことが有罪だとしても命を抱きしめたい

菅波栄純「人間」、2008年

「産まれ落ちたことが有罪」だという視点は、自身を呪うには十分すぎる念が込められている。それに、有罪だと分かっていながらも命を抱きしめるさまの痛々しさたるや。

罪だと分かっていながらも手放せない(抱きしめたい)と思うくらいには、命は甘美なものなのかもしれない。原罪を背負うがごとき重苦しさを一身に受ける命の存在から目が離せない。

だからこそ、「汚れなき涙」で次の一節を聴いた際には胸が震えた。

この真っ白な朝焼けが映してる

生まれてきたという事実に

罪なんてないということを

松田晋二「汚れなき涙」、2010年

おそらく、これらの曲は問いかけとその返答を想定したものではないだろう。都合のいい部分だけを切り貼りしたことも否めない。それでも、どうしても主張したい。

「生まれてきたという事実に罪なんてない」というのは、「産まれ落ちたことが有罪だと」する見解に対し、図らずも救済とも取れるような応答になっている、ということを。

翻って見れば「産まれ落ちたことが有罪だと」思っている人に対して「生まれてきたという事実に罪なんてない」と主張するのは、180度の価値転換に等しい。言うなれば「人間」からしてみれば「汚れなき涙」の主張は劇薬さながらだろうし、目が眩むほどに輝かしいかもしれない。

向かい合わせの主張が「人間」と「汚れなき涙」という別々の曲のなかに潜んでいながらも、「生命」という根っこの部分で共通しているのだとしたら―――

そう考えると、様々な楽曲たちとの関連性を勘案しながら、THE BACK HORNの世界をさらに深く潜ってみたいと、横暴にも思ってしまう。

人と人の間 そこにある何かが僕らを明日へと繋ぐの?

菅波栄純「人間」、2008年

たしかに自身が己を明日に繋ぐこともあるだろう。呼吸をしてさえいれば、取り返しのつかないことがないかぎり、自動的に明日はやってくる。とはいえ他者が自身を明日に繋いでくれることも多分にある。

それは何も自身と関係が深い人との間に限ったことではない。不思議なもので、たとえば隣室の生活音であったり、住宅街に灯る明かりが、微かな安堵をもたらしてくれることがある。

たとえば、一人ぽつんと見知らぬ街を歩くとき。誰かの生活の証ともいえる灯りの数々が見えてくる。そんなとき、誰かがいる痕跡に胸をなでおろすことがある。

こんなふうにして、本人の意識とは一切関係ないところで、自身を明日に繋いでくれる外的な何かが知らないうちに作用していることがあるのだと思う。

これが綺麗事に過ぎないのだとしても。なんら強力な効力は持たないにしても。命が在る場所には、ささやかでも可能性があることを信じたい気持ちがある。

「人間…」と複数の疑問が渦を巻くようにして語られ、収束していく最後(最期?)がとても美しい。

「人間」を取り巻く様々な苦悶、そして疑問、これらを綯い交ぜにしながら崩れていくような印象をも受ける。

この次に堂々と構えているのが「罠」である。「命さえももてあそぶのか」*3と告げる「罠」。これも「人間」という生命体に対する一つの答えなのかもしれない。

*1:菅波栄純「人間」、2008年

*2:寺山修司『愛さないの、愛せないの』、ハルキ文庫、2000年

*3:菅波栄純「罠」、2008年