「世界を撃て」、「フロイデ」、「覚醒」、「さざめくハイウェイ」という具合に、ものすごいエネルギーを放つ怒涛の曲順。どの曲も5分以内に収められているとは思えないくらいに濃密な世界が繰り広げられていて、圧巻の一言である。
もちろん、こうした勢いだけが『パルス』の真髄ではない。生命に等しい楽曲たちが様々な速度でもって描き出す情景、そこから炙り出される情緒、そのすべてが『パルス』の核心であるように思う。
それぞれの楽曲が織り成す景色はアルバムによって見事にちがう。そのなかでもとりわけ『パルス』に特有なのは、黎明を彷彿とさせるところであると感じている。
「裸足の夜明け」という転換点を経て、まさしく過渡期とも言えるタイミングでリリースされた『パルス』。新たな局面へ向かう一歩、もといTHE BACK HORNのさらなる躍進を確信させるような1枚である。
改めて幕開けを感じさせもするアルバム、『パルス』。今さらながらにこの点について言及したいと思ったのは、「鏡」という曲に想いを馳せたことによる。
猛烈な熱量が交差する4曲を経て響くのは、夢と現実のあわいを漂うような緩やかで淑やかな音、「鏡」だ。まどろむように儚げな風体を翻すも、その芯はとてもしなやかで堅固なさまを思わせる。
それは山田将司の伸びやかで広がりのある声がそう思わせるのかもしれないし、「鏡」のなかで響く音が冬の空気みたいに凛として澄み渡っているからかもしれない。ただただ心地好い音のたなびきを全身で味わうことができる曲である「鏡」。
前奏なしにひっそり、でもたしかに語りだされる形相だからこそ、この曲を聴く者はハッとしてその場に釘づけにされるのだろう。それに、いつでも聴くことが叶う曲ではない、という貴重さも相俟って、「鏡」が突然語りだされたならば、情緒が揺らぎまくることは必至。
事実、山田将司の弾き語りで聴いたときには、息をのむ音があちこちから聞こえたように思う。
鏡のように反射するものがなければ、私たちは自分の顔を見ることができない。それどころか、そもそも自分の顔を直に見ることは、永遠に叶わない。自分という存在はこんなにも近くにいるのに、どこかものすごく遠いところにいるようだ。
たしかな正体を掴めないまま、こうやって不思議に思う気持ちはあっけなく霧散していく。
これにも似た感覚で、「鏡」を聴いていると独特な気分に包まれる。たとえば、今にも壊れてしまいそうな繊細さから連想する儚げな佇まい。それから、彼岸と此岸との境目が交わる絶妙なあわい…。
「鏡」を聴いていると、こうした事象に触れるような感覚を覚える。それはまるでまどろんだように判然としないまま、ただ恍惚としながら、ひたすら音のなかをたゆたい続けているような気分とも言えそうである。
とはいえ、この状態を穏やかというだけでは物足りない。というのも、この平穏のなかには切なさとか、無情とか、遣る瀬無さも見事に綯い交ぜになっているからだ。
絶妙な色を煌めかせる玉虫のように、「鏡」を聴くときに抱く心情はなかなかに複雑である。朝日の射す公園 零れる希望に
眩んだこの目閉じて
明かりの無い世界を夢中で駆け回った
記憶の裏側を今感じてる
同上
歌詞がそう示していることはもちろん、音の運びからもそこはかとなく真っ白な光が連想される。それはさながら朝日のように白い。
「朝日の射す公園 零れる希望」という描写、それから歌声、そして音色。そのすべてが途轍もなくやさしくて、どういうわけか切ない気持ちになる。
切なさの理由は、零れる希望があまりにも眩しすぎて、目を閉じてしまう様子に共感するからだろうか。心の機微に一瞬でも触れるかのような佇まいが、一層趣を感じさせる。
THE BACK HORNの楽曲は4人がそれぞれ手を加えて創られているところがとても素敵だ。加えて、それぞれの言葉で歌詞が編まれるなかにも、ふとした日常を感じられるところが一等愛おしい。
それはたとえば「朝日の射す公園」であったり、「洗濯機の銀河の中」*1だったり、「洗い立てのシーツ」*2という描写のなかに見受けられるような日常である。
何気ない日常のなかに見出される希望、それこそ、THE BACK HORNが編み続けている希望であるような気がしている。
生きている限りどうしたって繰り返される日常、そのなかにこそ見出したい希望。THE BACK HORNの楽曲からは、その息吹をたしかに感じ取ることができる。
何も高遠なところにあるものだけが希望ではないということ、希望は日常生活というような身近なところにもたしかに潜んでいるということ、そしてこうした視点そのもの、これらすべてを、THE BACK HORNが教えてくれたように思う。
もしもあまりの眩さに目を閉じてしまったとしても、希望の在りかを知ってさえいれば、そうこうするうちに視界も開けてくるだろう。しかつめらしく構えずとも。
ともすれば無いものばかりに目を向けてしまう。が、すでにあるものに目もくれず無下にするのはきっと尚早である。すでにあるものにも、まなざしを向けてあげたい。何よりも自身に対して言いたいことである。
たとえありふれた希望だとしても、それが希望であることに変わりはないのだから。
何処に居ても笑えない事ばかりだよ
だけど太陽は照らすのさ
同上
「だけど太陽は照らすのさ」という一節では、『日はまた昇る』と同じ意味合いでの無情や、繰り返される生活に対する遣り切れなさが語られているわけではない。
穏やかな音調のなかにも垣間見える切なさ、描写される日常の遣る瀬無さ、それでも希望は零れるほどに存在している。それは、「だけど太陽は照らすのさ」と言えるように。
音のたなびきにいつまでも浸っていたいと思わせるなだらかな音たち、そして山田将司の声。この揺曳を余すところなく保持することができたらいいのに、とさえ思う。「鏡」の余韻はやけに鮮明である。
束の間の休息、とも言えるような時間を演出する「鏡」。ここから「白夜」が展開されるのだから、情緒は何とも忙しないよね。