メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「ゲーム」|たしかなリアル

書くときには改めて音源を聴く。繰り返し聴く。そこから言葉を手繰り寄せる。自分のなかに沈潜する言葉を、あるいは芽吹く言葉を。

でも今はなぜか「ゲーム」の対極にあると言えるくらいに穏やかな「ぬくもり歌」を聴いている。なぜだろう。なんだか無性に聴きたくなった。

それはさておき、「ゲーム」という曲について。

前曲「ワタボウシ」の幻想的な佇まいとは打って変わって鳴り響く怒号。THE BACK HORNらしい怒涛の勢いと爆音は、辺り一面の雪を蒸発させるがごとき熱で台頭する。

「脱落者 今日は 自分かもしれない」*1という歌詞が妙に刺さって、身につまされる思いがしする。理由もなく、ギリギリのところで生きていると思いながら過ごすのは健康とは言えないけれど、誰もが平等に脱落者になりうるのはたしかなことである。

どう転ぶか分からないから、せめて自分が肯けることをする、肯ける方向へ進む。たとえそれがどれだけ小さな選択であっても、その繰り返しによってその人は徐々に形成される。だからこそ、違和感を覚えたならばそれを看過するべきではない。それが名状しがたい違和感であったとしても。

このままでいい そんな訳ねえさ
耳を塞ぐなよ
同じ言葉話す お前よ
THE BACK HORN「ゲーム」、2002年

THE BACK HORNには、自分に向かって言い聞かせるようなフレーズが散見される。たとえば上記は「赤眼の路上」に登場する次のフレーズにも、そこはかとなく通じる精神性があるように思える。

絶望孤独月明り
死にゆく勇気なんてない
それなら生きるしかねえだろ
THE BACK HORN「赤眼の路上」、2003年

「ゲーム」では、自分自身に向かって放つ言葉なのか、はたまた他者に向かって投げかける言葉であるかは定かではない。が、自分の想いがしっかりと乗った言葉にはちゃんとした重量があるのはたしかなことである。「赤眼の路上」もしかり。

同じ言葉や紋切型の言葉、言い換えれば本当に自分の頭で考えたうえで発しているのかわからない言葉を繰りだすひとは思いのほか多い。

だからこそ、繰り返し、銘記する。自分の頭で考えるべきであるということを。考えたことがない、というのは思考停止に等しい。

「このままでいい」と甘受しないならば、否応なしに考えることが必要である。そこから打破できることが必ずあるはずだから。

こう書きながら思ったのは、これは自分自身に放ちたい言葉なのかもしれない、ということである。このままでいい、なんて一つも思っていないなら、それでは、そう思っている自分には何から着手できそうだろう。どんなふうに一歩を踏み出せるだろう。

次のフレーズが切実な意味を帯びて自身に降りかかってくる。

何がリアルだろう 何が出来るだろう
THE BACK HORN「ゲーム」、2002年

生きている感覚とか生きている実感が乏しいわけではない。それでも、無意識に日々を繰り返すことで奪われていく感覚があることはたしかである。

何も考えないことが当たり前になったとき、大切な何かを失ったことにも気づかずに淡々と暮らせてしまうことはおそろしくも容易に想像できる。

考えないということは、生きている感覚を薄れさせるにはうってつけの方法なのかもしれない。

私は、と言うと、〈今ここ〉とか〈明日〉とかの1点に縛られるのが自分のリアルになりつつあったことが最近では何よりも恐怖だった。これから先のことも何も思い浮かべられずに、ただ日々に追われ、気付いたときには今日が終わっていく。ともすると安易に自分の所在を見失ってしまう。

気力を保たないと、明日より先に希望を託すこともままならない。少し先の未来に思いを馳せるなんてもってのほかである。

だからこういうときは、多少手荒くとも、視野を強制的にこの先に向けてみることが肝要なのかもしれない。最近になって身をもって知ったことである。

強制的にライブの予定を立てる。旅行に行ってみる。髪を切る予約をする。今から少し先の季節に着る服を買う。

そうやって、心が躍る経験を重ねてみる。未来の自分が呼吸をしやすくなる道を〈今ここ〉で選択する。そう思える気持ちがあるなら、まだきっと大丈夫であろう。

翻って、私に何ができるのかは正直なところ分からない。では、所在不明の潜在能力が目覚めるのを待つのか?否、残念ながらそこまで夢見がちではない。

それでも、「何がリアルだろう」と自問自答するとき、そのひとつにTHE BACK HORNの歌があることは紛れもない事実である。

囚われの意識を叩き起こしてくれるのは、山田将司の咆哮も例外ではない。

ほかにも様々な「リアル」があるなかでも、自信をもって肯ける「リアル」には、THE BACK HORNという世界も含まれているということを高らかに主張したい。

ところで、「ゲーム」とちがって、嫌になったり失敗してもリセットできない。無敵のスターや強化キノコもおそらく存在していない。あまつさえ、+ 100のライフだって持てそうにない。

ゲームのなかにもそれなりの苦労や物語もあるだろうが、画面のなかに留まらない〈人生〉において、「人生はゲームなんかじゃない」ことを知りながら、私たちはそのなかで足掻いている。

何か意味があることにちがいないと思わずには折り合いがつけられないことだってある。未だに引きずってしまう拒絶もある。

それらを殊勝にも誤魔化したり、自分をあやしながら歩を進めることで、目の前に広がる「リアル」とどうにか折り合いをつけていく。

そのさなかで、人生はゲームのように最初からやり直せないが、途中で編み直せることを知る。

あるいは、無敵のスターほどではないにしても、思いもよらない僥倖に出くわしたりもする。

そして、+ 100のライフは持っていないけれど、1回分のライフしか与えられていないなかで、真意をはかりかねながらも、一度きりの人生を自分なりに成形し、生きていく。

叫んでやれ 生きてることを
声が無くても 歌えるから
THE BACK HORN「ゲーム」、2002年

生きているということを高らかに掲げることは他の誰でもなく、自分に対して必要なことである。だって、今もこうして生きている。当たり前のように見えて、これはすげーことだ。

いつ死ぬか分からない、そんな人生を、今日だってこうして生き延びている。

当たり前に思うかもしれない。でも当たり前なんてことは何一つない。

だから、今日もこうして書き殴っている。絶対にまだ死ねない。まだ終われない。

だから叫べ、生きていることを。どうか高らかに主張するのだ。だってこれはオオゴトなのだから。

*1:THE BACK HORN「ゲーム」、2002年