メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「空、星、海の夜」|光に導かれる者

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2枚目のアルバムを『人間プログラム』に決めたのは、「空、星、海の夜」を聴いていたときに「この曲について書きたい」と思ったからである。

あれから随分と時間が経ってしまったけれど、ようやくここまでやってくることができた。いよいよ「空、星、海の夜」について話すときがきた。感慨深い気持ちと、どう切り開いていこうという思いでとてもワクワクしている。

オルゴールのように穏やかでゆるやかに紡がれていくけれど、その実「空、星、海の夜」はとても壮大な曲で、表題に掲げられた空のように広大で、星のように眩しくて、海のように深い。

「空、星、海の夜」という名前にちなんで、というと語弊があるかもしれないけれど、紺青に金色が散りばめられたものとか、トラフィックイエローとコバルトブルーのコントラストが効いた色を見ると、つい「空、星、海の夜」を連想して、手に取ることが多い。そうこうするうちに好きな曲にちなんだものが集まるのはうれしいことである。それらを目にしたときにムフフとなれるのだから。

「空、星、海の夜」に限らず、好きなバンドを連想するような何か素敵なものたちに囲まれているような生活をしていきたい。

バンドバージョンでもアコースティックバージョンでも「空、星、海の夜」は眩しい輝きを放つような存在である。それぞれの表情が魅せる閃光がとても眩しい。

この曲は様々な形で編まれ、観客のもとに届けられている。改めてこのことに目を向けると、作り手と受け手の双方からいかにこの曲が大切にされてきたのかを知ることにもなる。宝物のように大切なまま古びていくことが、とてもとても尊い

ところで「空、星、海の夜」を聴いていると、蟠りが浄化されるようにして涙が下っていくことをたびたび経験する。まるで打ち寄せる波によって胸のつかえが攫われるとともに心は洗われていく、とでも言えるだろうか。

頭から水をかぶったように濯がれていく心を感じ、真っ黒に染まった心に真っ白な余白が生まれたことに気付けるようになるのだ。

そういえば昔、母がこの曲を聴いたときに何よりも感動していたことを思い出す。情けない話であるが、弱冠17歳だった私には「空、星、海の夜」の深度を知るにはあまりに人生経験が浅く、ただ幼すぎたのだろう。あれから十分に年を重ねたとはいえ、未熟な部分はありありと健在している。が、ようやくこの曲の深みに共鳴することができるようになったと思っている。曲がりなりにも私も成長しているようで安堵する。

「空、星、海の夜」は訥々と言葉が紡がれるようにゆっくりと語られるところがとても心地よい。一言ひとこと慈しむように語られる言葉はまるで子守歌のように穏やかで、とてもやさしい。

「今日をこえて行けるよう歌うんだ」*1という言葉に日々支えられ、実際に今日をこえるためにこの曲を幾度となく聴きかじり、ライブで聴いては胸を震わせた。今日をこえるための歌に私は今日も掬われ、同時に救われている。

「空、星、海の夜」という曲は徐に光が灯されるようにとても温かい。それと同時にたしかな勁さも感じ取ることができる歌でもある。

この曲は、どれだけ大人になっても忘れてはいけない心があるということを何度でも教えてくれる。それはまさしく夜空に思わず手を伸ばしてしまう気持ちそのものであって、純粋な気持ちを携えようとする純真さに等しい。

夜空に届きそうで 手を伸ばしてしまうような
気持ちがいつしか消えて果てる時…
歌は死ぬだろう
THE BACK HORN「空、星、海の夜」、2001年

きっと彼らは夜空に「手を伸ばしてしまうような」気持ちのまま、ずっとずっと歌を創っているのだろう。真っ直ぐでやわらかな心を携えて、それぞれの歌に命を吹き込んでいるのだろう。この命を反映させたものがTHE BACK HORNが創り出す音楽であり、世界なのだと思うと、これ以上の聖域はないとさえ思う。

生きながらにして失うばかりの私たちは、失っていくことを幾度と経験しながらも失ってはいけないものの存在に気付かされもする。それが世界と自身とをつなぐ紐帯になってくれることも、たしかなことであるはずだ。

たとえば失ったからこそわかる何気ない日々の大切さとか、明日食べる朝ごはんが楽しみだったりすることとか、冬に夏の洋服を買うこととか、それが大層なものでなくたって、世界にとどめてくれる理由が一番星みたくきらめく瞬間というのがあるような気がするのだ。

笑った顔が切なくて 
こんな日々がいつまでも続けばと
思ってたのは 夏の心
透明な雨に打たれ消えてった
同上

壊れそうなくらいに儚い印象を抱かせながらも、「空、星、海の夜」は何よりも逞しい魂が宿っていることを確信させる。この佇まいはこの曲に特有なもので、目を瞠るものがある。

「笑った顔が切なくて」という描写がとにもかくにも胸を衝く。慈愛と愛惜に満ちた想いがあるからこそ、笑った顔を切ないと思えるような気がする。こんなにも切実な想いを抱えていながらも、夏の雨は「こんな日々がいつまでも続けばと」という希いを攫っていくのか。なんとも歯がゆく、やるせなさがやけに鮮明に残る。

もし慣れることがやさしさで
許すことのできる強さなら
忘れぬようにとつないだ手
ほどいた時 飛べるのか
同上

なぜ、この歌はこんなにもやさしくて、勁いのだろう。

つらい体験や悲しい思いを重ねたからといって自ずとやさしいひとになれるわけではない。ただ、「空、星、海の夜」を聴いていると、身が引き裂かれるような想いを胸に秘めながらも芯からやさしく、ただ勁く、夜の海のようにすべてを包み込む深い心の存在を目の当たりにする心持ちになる。

もしかするとそれは、豊かな感情のなかに沈む悲しみの存在がそう思わしめるのかもしれない。

様々な感情を知ることで、心は豊かに育まれていく。そのためには、どうにも苦しいこととか、つらいことというのも必要な要素なのだと思う。だからときにはどうにかしてそれらに向き合う必要が出てくる。ありもしない答えをどうにか自分なりに手繰り寄せようと一心不乱に思考を巡らせる場面に遭遇する。

そうした過程で納得がいくこともあれば、決裂することもあるだろう。折り合いをつけられれば御の字だけど、たとえ袂を分かつことになっても、それが自分なりに見出した答えであるならばそれは立派な分岐点になるはずである。これがまさしく、以下に綴られるような「語りなおし」の一部ではないだろうか。

わたしたちはそのつど、事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、たとえば腕をなくした、足をなくしたとか、子どもを亡くしたとか、じぶんはもう病人になったという事実を受け入れるために、深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへとなんとか着地する。そうすることで、じぶんについての更新された語りを手にするわけです。言ってみれば〈わたし〉の初期設定を換える、あるいは、人生のフォーマットを書き換えるということです。
鷲田清一『語りきれないこと―――危機と傷みの哲学』、角川学芸出版、2012年

悲しみを背負いながら、喪失と出会いながら、それでも歩みを続ける。その先で見つかったのは、「歌が導くだろう」という確信なのかもしれない。

チカチカと星の瞬きのようなギターが紡がれていく。ここから一転して海鳴りのような悲鳴を上げるところが印象的だ。泣き声のようにも聞こえる音の連なりにチクリと胸が痛くなりながら、その切実な希いを一身に受け止めたいと思う。

空、星、海の夜 行き急ぐように身を焦がして
このまま生くのさ 強く望むなら
歌が導くだろう
THE BACK HORN「空、星、海の夜」、2001年

何が大丈夫と具体的に言えるわけではない。ただ、この曲を改めて聴いたときに「たぶん絶対大丈夫であるにちがいない」と何よりも堅固な自信が心に湧いてきたのだ。空っぽな心に一閃する光、つまりそれは歌が導いてくれるという絶対的な安心感にほかならない。

いついかなるときに躓いてしまうかはわからない。ただいついかなるときでも忘れたくないのは、「今日をこえて行けるよう歌うんだ」と希うこの歌がこの先を照らしながら導いてくれるはずである、ということだ。

信じる者が救われるかどうかは判らない。が、信じているものに救われることは必ずある。そう確信している。

*1:THE BACK HORN「空、星、海の夜」、2001年