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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「声」|震わせ続けるたまゆらの命

THE BACK HORNyoutu.be

「声」のMV、本当に本当にかっこいいですよね。疾走感があって、気魄に満ち溢れていて、魂が一点集中して込められている様子がビリビリと伝わってきます。

「声」は、THE BACK HORNの真髄を目の当たりにしたような、神秘に触れるようなそんな一曲だと、ここで言い表したい。これが決して大げさな表現ではないことは、この曲と対峙したことがある人ならばきっと解るにちがいない。

夏になると必ず聴きたくなる曲で、夏に焦がれるような想いにもなるし、そこには概念における夏の情景が浮かぶ。これまでライブに足を運んだうちの3分の1程度は披露されたのではないかと思う「声」(当社比)。

歌詞を読むたび、そして聴くたびに情緒は搔き乱され、切なさが心の奥底から滾々と湧き上がってくるのだ、情緒ぶっ壊しメイカー。壊すのに作る人とな?

疾走感に溢れているのに、そこに漂う妖艶さに魅せられては恍惚とする。THE BACK HORNのすごいところは、艶っぽさのなかに底光りする安定感があるところだ。精彩を放つ威力は、歳月を経るごとに更なる勢いを増している。

いつの時代もナンバーワンだぜ!というのが、とどのつまり私が言いたいことではあるのだが、これではあまりにも情緒に欠ける。出来る限り情緒を置き去りにしないように歩みを進めながら、電光石火の如く駆け抜けて、切なさを鮮烈に刻みつける「声」について、したためてみたい。

改めてアルバムに収録されている「声」を聴くと、その若々しさがスピーカー越しに今にも弾け飛んできそうな勢いに満ちていて、颯爽としている印象を受ける。これに対して、今の彼らが響かせる「声」は、今だからこそ乗せることのできる熱情を孕んでいるので、灼けそうなくらいにとにかく熱い。一緒になって届くのは、これまでの歩みが込められた4人の叫びだからなのだろう。

今走り出す 何処までも新たな旅路を行く
決して振り返ることなく
この限りない情熱で嵐の日々を越える
いつか晴れ渡るように
松田晋二「声」、2006年

憚りながらも感じたのは、THE BACK HORNを見ていると、年を重ねることを肯定的に受け取れそうな気持ちになるということだ。それがどういうことなのかということを、ちょうど読んでいた本にあった印象的な文章と絡めて話をしてみたい。

時間の本来の性質とは、その取りかえしのできない変化だ。過ぎ去った時は永久に今とはならない。同じ印象がまたかえってきても、僕は依然としてその印象をかつて感じた者だ。春は、すでに幾春かをすごした人を訪れる。生き物がみな老いるように、どんな意識でも取りかえしがつかず年をとるものだ。(……)この時間はぼくのなかにしかない、僕のためにしかない。
アラン『精神と情熱とに関する八十一章』、東京創元社、1978年

年を重ねることは、何も私だけに限ったことではない。アランが言うように、あらゆる意識も取りかえしがつかずに年を取っていくのだ。この取りかえしがつかない変化を、愛惜しながら心に仕舞い込んできた。なかには忘れてしまうことだって、あっただろうけれど。だからこそ、惜しみながら、慈しんで。

一般的に言って年を取るというのは、これまでは平気なことにも不調を感じたり、あるいは気にするようになったりと、ともすれば消極的に捉えられがちだ。とはいえ、心に仕舞い込んだ愛惜を灯にすることは、年を取った意識を携えてこそできることであり、思い出せる思い出が募るからではないか。

この思い出は、「取りかえしがつかない変化」というのに見合うだけの褒賞だ。だから、少しずつでも、老いを許容できそうな気持ちでいるよ。まだ、抗いたいのも事実だけれどね。

これは今後も幾度となく口にしてしまうような気がして躊躇われるのだがたぶん何度も言います。かたじけない。THE BACK HORNの好きなところは、儚さだとか、無常だとかいうものを真っ向から受け止めるところ。

そして不条理な部分を受け止めたうえで、「それでも」という想いでそれらを抱きしめ、連れていける限り明日へ連れて行こうと藻掻いているところ。

この儚さを抱きしめて世界の彼方までも
響け本当の声よ
響け本当の声よ
松田晋二「声」、2006年

蝉のように、と言わないまでも、私もきっとたまゆらの命を震わせ続けている。命が震えるのは、THE BACK HORNと出会えたことによる感動からであって、彼らに共鳴できる喜びからでもある。何物にも代えがたい巡り合いを果たした命だからこそ、それを儚みながら慈しむことができるようにさえ思う。

私なりの「本当の声」は一体何であろうか。自分が伝えたいこと、何が何でも思い出したいこと、感謝、愛と呼べるものなどが挙げられるだろうか。

もしかするとそれは、むき出しのままで装飾を施さない状態の感情みたいなものかもしれない。でもこれって、表出させるのは相当恥ずかしいことだし、端的に言えば己の弱さを露呈することではないか。

心の奥の一番やわいところを、武装解除した状態で曝け出してみる、そんなリスクを負うなど、怖気づいても無理はない。ただ、そこまでするからこそ関係できることだとか、つながる先があるということを、私は信じてみたい。

己を賭す乾坤一擲の勝負。月並みではあるけれど、むき出しの感情を私なりの「本当の声」を見つけて、表していきたい。見っともないこともあるだろうし、長ったらしくて、支離滅裂で、そんなこともあろうけれど。それでも。感謝と愛は惜しみなく真っ直ぐに伝えていきましょう。私と私との約束です。

さて、またも脱線しますが、以前まさっさんが企画した、声だけで鳴らした「声」に感動を禁じ得ず、才気溢れる発想と演奏にほとほと心酔しました。何度でもライブで響かせてほしいです、遠い遠い夏の歌。そして、ずっと探していきましょう、「本当の声」を。