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THE BACK HORN 「負うべき傷」|生きる意志と苦悩

何よりもまず「負うべき傷」という曲名に衝撃を受けた。癒えない傷をしきりに抉るような自虐行為を、何とはなしに彷彿とさせる。

正直に言うと、彼は何らかの自責の念に苛まれていたのだろうか、という邪推が脳裏をよぎることを否定できないのだが、ここでの目的は、作者の意図を100字以内で読み取り、記述することではない。私の試みは、私なりに抱いている印象と想いを、ただ詳らかにすることである。

懐かしい、と感じてしまうことは、端的に言って私の経験によるものなので、この曲にかぎった感想ではないのだが、「負うべき傷」を今聴くと、当時の景色を思い出しては、懐かしさのあまり絶命しそうな念に駆られる。

何か特別な出来事があったわけではない。ただ平凡な日常、高校生としての日常をつらつらと送っていただけである。

その平凡さに打ちひしがれてしまうのは、私も平等に歳を重ねたからだろうか。だって、16歳のときでしょう。今よりも一層未熟な精神とともに暴れる素直さを飼いならせずに、月並みに屈折した学生として生活していた頃、THE BACK HORNは「今ここでない」ところに連れて行ってくれる特別な存在だった。

これも余談ですが、「負うべき傷」はね、ライブでもまだ一度も聴いたことがないの。いつか、ライブで聴いてみたいと、一日千秋の思いでいる。

「負うべき傷」を聴いていて一貫して思うのは、その純度の高さだ。嚠喨な音が一層切なさを掻き立てるし、生きることに対する葛藤なんかも、僭越ながらそこはかとなく感じられて、生きる意志とも苦悩とも取れるような想いが率直に描出されているところが一等好きだ。

負うべき傷も負わずにどこまで行けるのかな
何を残せるかな
遠くで街はいくつもの未来を受け入れている
独りうずくまる
岡峰光舟「負うべき傷」、2007年

季節は、おそらく正しいスピードで今日を過去に収斂させることができる。その移ろいを反映させる街も、例外ではないのだろう。マクロな視点で見れば見るほど、一般的に表現される世界なるものが、きちんと未来を受容していくように見えるのも、もっともなことである。自分以外は、ちゃんと進んでいるようにしか見えないのだ。

世間を賑わせたニュースも、当事者でないかぎり、「昔のこと」として情感が薄れていくさまを私たちはよく知っている。それとは対照的に立ち尽くす自分。それは自分が紛れもない当事者であるからで、季節の移ろいよろしく、折り目正しく変化できるわけでもないからで、その痛ましさがジリジリと伝わってくる。

負うべき傷も負わずに孤独な痛みさえも
分かることもなくて
いつかはこんな想いも越えてゆけたら
同上

道半ばにいるときはいつも、越えていけそうもないことに懊悩してばかりなのに、やっとの思いで突破できたとしても、「越えられたこと」として実感が沸いてくるのは、一定期間を空けてからということも珍しくない。

さらに「越えられた」と思えた頃には、「そんなことか〜」と言えるくらいには笑えることになっていたりする。もっと言えば、そこを抜け出せたとしても、また別の事柄に対して苦渋の色を浮かべたりもする、そんな繰り返しばかりではないか。

いずれにしても、それが諦めないからこそ見えてくる地平であることには変わりなく、そうした経験ができるのは、見方によっては幸せなことかもしれない。

釈然としない話になってしまったが、何を言いたいかと言うと、目に見えて結果が分かるようなことでない限り、達成した!と明確に思える出来事のほうがおそらく少なくて、とりわけ、はっきりした答えが出ない事柄については、判然としないまま、気付いたときにはもう越えていた、とか、あの場所から随分と遠ざかっていた、と感じることのほうが多いのではないか、ということ。そして、そんなふうにして場数を踏むことでしか、理解できない痛みもあるように思うのである。

皮肉ながら、様々な感情を紐解くことでしか腑に落ちないことは多い。

例えば、何か大きな衝撃を受け、その威力の甚大さだけが残り、心も言葉も追い付かないとき。こういうとき、私は音楽や本を手掛かりにどうにかして今の自分の心境を表現してくれる言葉を見つけ出そうと試みる。地道に探り当てるほか、自分が納得いく答えを手繰り寄せる手立てはない。

そうこうして、自分のなかで感情の整理がついたときに改めて音楽を聴いててみると、それまでとは違った表情が見えたりする。感情の整理と音楽は、私にとって切っても切り離せない関係にあるのだろう。

こんなふうに新しい発見にたびたび出くわすことができるから、長い年月聴いている音楽であっても、否、長い年月聴いている音楽だからこそ、懐かしさと新鮮さを携えて愉しむことができる。

これは余談だけれど、数年越しに理解できる痛みを知った際には、その分、少しでもやさしくなれるのではないか、なんて思ってみたりもする。

丹精込めて作られた楽曲たちを、作り手とまるっきり同じ気持ちで聴くことができないのは致し方ないことである。というのも、聴き手の元に届いてからは、銘々の解釈が楽曲たちに差し挟まれることになるからである。

聴き手の数だけ、それぞれの楽曲に様々な思い入れが息づき、一つひとつが掛け替えのない一曲としてゆっくりと醸成されていく。そのとき「大切な一曲」であることだけは両者に共通したままで、それぞれの元で翻訳されていくのである。

音楽の威力を、もっと言うとTHE BACK HORNの底知れない力を再認識して、改めて「負うべき傷」を聴く。酸いも甘いも嚙み分けることは容易くはないけれど、感情などの機微に聡くなりたいものである。

ところで、これもまた別の話ですが、名残惜しさを体現したみたいな音色が響いて、一瞬静寂に包まれたあとに「声」がくるんですよね。曲の並びからしてもう、胸が締め付けられることは、言わずもがな必至ですよね。