メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「さらば、あの日」|始まりを始める歌

「さらば、あの日」という歌は、両手いっぱいの切なさを集めて花束にしたみたいな曲だと、ふと思った。

それはきっと花が咲くのを願う描写が差し挟まれているからかもしれない。あまりにも短絡的すぎる発想だけれど、「さらば、あの日」という歌が切なさの集合体であることはあながち間違ってはいないだろう。

その理由についても考えながら、「さらば、あの日」という珠玉の作品について紐解きたい。さて、何から語ろう。

言葉と言葉が引き合い、呼応するのを待つ。おそらく、楽曲たちについて語るほどに、その真意から遠ざかってしまうのが真理であろう。

それでも、THE BACK HORNが放つ音楽を聴いたことで生まれる心の動きを、どうにか言葉として形に残したいという思いを抑えられずにいる。

さて、どこから解剖しよう。

「さらば、あの日」という歌では諦めや迷いを携えながらも夢を固持する姿が痛切なまでに描かれている。だが、この曲のなかで〈夢〉について直接的に触れられているのは、冒頭のみである。

去りゆく今日 にじむ明かり

夢のかけら ただ 拾い続けた

THE BACK HORN「さらば、あの日」、2000年

明かりが滲んで見えるのは、目に涙を溜めているからである。そう分かるのは、この後の描写による。

譲れぬもの 霞みそうで

涙をこらえた 唾を吐いて

同上

潔く諦めて別の道を歩むこと、諦めきれずに同じ道をひたすら進むこと、そのどちらも正しい答えでありうる。たとえその道が険しくとも、緩やかであろうとも、心の向く方が、きっと正解なのだろう。「さらば、あの日」では、後者を選択したことによる葛藤が鮮やかに叙述されている。

ごく自然なことではあるけれど、信じた道を信じることができるのも、信じることをやめるのも、最終的には自分の所作による。

「さらば、あの日」では、この歯がゆさに悶えている様子がひしひしと伝わってくる。分かっていながらも諦めることはできず、でも、霞みそうになる危うさと隣り合わせのまま「譲れぬもの」を胸に抱えて歩む姿は、聴く者の心を掴んで離さない。

「夢のかけら ただ 拾い続けた」日々は、「譲れぬもの」が「霞みそう」なくらいに覚束なくて、不安定だったろう。それでも、きっと、彼らは諦められずにこの道を突き進んできたにちがいない。

こんな日々が20数年の時を経て今日まで続いているという事実に、心の底から、ただただ感謝している。

さらば 燃ゆる陽に 唇噛んで

立ち尽くした 御空に 咲け花

同上

リテイク版ではところどころコーラスが入っていて、音にさらなる深みが出ている。荒削りのままの「さらば、あの日」ももちろん大好きだけれど、洗練された「さらば、あの日」も風情があって素晴らしい。

ところで、ここで対峙しているのは、悔しさだとか、押し込めた想いだろう。悔しさは、真面目に向き合うからこそ生まれる情動である。押し込めた気持ちは抑圧するほどに首をもたげて存在を主張してくる。

靄のように自分を覆うこの気持ちと、折り合いをつけることが肝要だ。だって、おそらく、そうもしないと先には進めそうにないから。

それでも又 空を見上げるだろう

じりじりと身を焦がして

同上

言葉通りに焦がれる様子がまさにじりじりと伝わってくる。「それでも」という言葉に託された葛藤に思いを馳せる。

だって「それでも」という言葉は、逡巡に逡巡を重ねたうえに疼くような、やむにやまれぬ心の動きでもあるからだ。そこには諦めきれなかった心残りが何よりも強い存在感を放ち、後ろ髪を引いている。

「さらば、あの日」を聴いていると、喉の奥がツンとするような切なさを覚えるのはなぜだろう。どういうわけで、この歌を切ない歌だと思うのだろう。切迫した想いがヒリヒリとキリキリと存在感を放つのはなぜだろう。

雲をつかむような話だけれど、そう思うのは、心の底から叫ぶ声がここにあるからかもしれない。歌詞にある言葉を見ても、言葉の温度や深度が直接伝わるわけではない。

が、音と声が融合することで、本当の気持ちが伝わってくるような気がするのだ。音と声に乗って、本当の温度も、本当の声も、想いの深さも、全身に受け止めることができるようになると思えてならないのだ。

だから、感じ取った切なさの正体とは、本当の想いがちゃんと届いた証でもあるのかもしれない。

想いは、生きている。歌のなかに、これほどまで脈打つ胎動のなかに、命が存在している。

この痕跡は、THE BACK HORNが歩を進めるための契機でもあったにちがいない。なぜならば、長い年月を経て、私たちは違う形でこの歌の面影を目の当たりにするからだ。

2021年12月にリリースされた「希望を鳴らせ」。この曲のなかに、くっきりと刻まれた「さらば、あの日」の足跡が見て取れる。21年続く軌跡を、改めて祝福したい気持ちが溢れだす。

馬鹿だろ今 俺は何処へでも行けるって 叫んだあの日は遠く

菅波栄純「希望を鳴らせ」、2021年

 

「馬鹿だろう? 今俺は 何も無い故に何処へでも行ける」

THE BACK HORN「さらば、あの日」、2000年

「希望を鳴らせ」で語られているとおり、「叫んだあの日」は遠くに過ぎ去りながらも、滲むことはなく今もなお顕在している。そう思えるのは、「さらば、あの日」と別れを告げた「あの日」が今日まで間違いなくつながっていると確信させるからだ。

「さらば」と別れを告げたかったのは、矛盾も、悔恨も、諦めも、後ろめたいすべてを置いた日のことかもしれない。

さよならを告げることが名残惜しいか否かは図りかねる。が、この遣る瀬無い気持ちは原動力にもなっていて、自らを動かすエネルギー源でもあったことはたしかである。

たとえば、何も失うものがないからこそ何でもできると思えることがある。そのとき、行動力が何割か増すのを感じもすれば、実際に軽やかに行動できることもある。

吹っ切れたからこそ放つことができる世界を穿つ一撃は、思いのほか威力があるのだ。

だとすれば、自分も夢を追いかけるとき、それがどんな年齢であっても、世間一般に年甲斐がないと言われようとも、この歌を思い出すことで、自分を奮い立たせることができるのではないか。

葛藤しながら時には携え、時には捨て、それでも「譲れぬもの」だけは、いかなる状況にあっても頑なに腕に抱いてきたのだろう。そうした意味でも、「さらば、あの日」という歌は、訣別とともに始まりを始める歌だと思えてならないのだ。

「馬鹿だろう? 今俺は 何も無い故に何処へでも行ける」と、彼らは言った。果たして彼らは何処へでも行けたのだろうか。その答えはまだきっと出ていない。

なぜならば、「あの日」は今日までずっと続いているからであって、つまりは旅路の途中を意味するからだ。

始まりが始まる音がする。それこそ、THE BACK HORNが奏でる音楽だ。