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THE BACK HORN「未来」|心が震える瞬間に立ち会うこと

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「未来」が主題歌になっている映画があると知ったのは、おそらく大学生になりたての頃。私は逸る気持ちを秘めながら『アカルイミライ』のDVDを借りた。この映画のどこに明るさを感知したらよいのだろう、と思わせるような暗いところが私は好きだ。MVも映画とリンクしているところがあって、両方とも何度見ても楽しめる。クラゲを見ているだけでも結構堪能できると思いますが、いかがでしょうか。

「未来」を聴くと、想うということがあまりにも無垢で、ひどく傷つきやすい繊細なものであることを突きつけられる。前奏がないから、ライブで唐突に始まる「未来」に立ち会うたびに、私は心臓を掴まれたように胸の奥がドキリとするのを感じる。それは、目と目が合ったときみたいに火花がバチッと散るような感覚に似ている。

ああ、「ときめき」とは、この胸の高鳴りのことを指すに違いない。そうした確信が肚のなかにじわりと染み渡る。そこはかとない直感がたしかな意識に移り変わる過程。こうして音楽は、己の血肉に徐々になっていくのかもしれない。

全身を、あるいは魂を震わせて奏でられるこの歌を聴くと、心の奥底まで深く息を吸い込むような感覚が全身をめぐるようである。最後に「未来」を聴いたのは、ひょっとすると20周年のときの武道館だろうか。

松田晋二がドラムのスティックを掲げ、カツカツカツと拍をとったと同時に始まったあの瞬間、私は歓喜の叫びを匿いきれずに、思わず「ああああ」と不意にこぼして口を押えたことを憶えている。あの頃はまだ、マスクをしていなかった。聴きながら、やっぱり泣いてしまったよな。今でもあの情景を思い出すたびに、心が震えるのを感じるよ。本当に、とても大切な時間だった。

ところで「未来」は、その美しさのあまり、壊れやすそうな脆さを連想させるが、その実、髄まで芯がとおっていて、とても逞しく勁い歌である。ここで思い起こされる脆さと勁さ。本来は同席することはないこれらの対概念が手を取り合うさまは、THE BACK HORNだからこそ描き出せる情景であろう。すさまじい引力にあっけなく吸い寄せられるのは、落花流水のごとく惹かれることと等しいと言える。

粉雪白く 思いが積もる
小さな革命だった 君が肩に触れた
抱きしめて恋をした
それが全てだった
THE BACK HORN「未来」、2003年

この歌詞以上に想うことを的確に表す言葉を私は知らない。「抱きしめて恋をした それが全てだった」と過去形で語られているところも、遣る瀬無さを携えた鮮烈な色を忍ばせていて心底綺麗だと思う。

原初的なところに遡ってみれば、想うということはおそらく飾り気がない単純なものを核にしている。本当はその愚直さを知っているはずなのに、大人になるにつれ、何かほかの言葉や言い訳みたいなものをその想いにくっつけてしまうきらいがある。そうするうちに、自分の本音なのに、自分の本音だからこそぼんやりと霞むような気持ちになったりもする。

「未来」を聴いていると、そうした純粋な気持ちをかつては胸に灯していたことを追憶すると同時に、そうした気持ちに立ち返ることを教えてくれもする。その綻びにしか宿ることのない気持ちが存在することを告げられたかのようで、ハッと我に返る思いがする。まるで少しずつ夜が明けるような安心感を覚える。

ふと思い浮かんだのは、薄明の時。根拠があるわけではないけれど、この先はきっと大丈夫なのだと、ふわりと、でもたしかに確信できるような思いが胸に宿る。

千の夜飛び越えて
僕ら息をしてる
世界は今 果てなく
鮮やかな未来
同上

ここから先で鳴らされるのは、まるで「鮮やかな未来」に想いを馳せているかのような間奏である。この響きには、何度も何度も胸を突き抜かれてきた。久しぶりに聴いてみたけれど、その威力は勢いを増しているようにさえ感じる

。ここで掻き鳴らされる音と揺さぶられる情緒は、おそらく比例している。ここでたなびく音は、まるで千の夜を越えていくような歳月の流れを感じさせもするし、一羽の鳥が静かに降り立つような趣を携えている。静寂に寄り添うように、一言ひとことを慈しみながら語りだされる言葉を、私はこの腕いっぱいに抱きしめたい。

何処まで 何処まで信じてゆける
震えるこの手に想いがあるさ
心に 心に歌が響いて
僕ら歩き出す
鮮やかな未来
同上

山田将司の歌声は、どこまでも痛切な想いを抱え、どこまでも響く。いつまでも響き続けるこの歌をいつまでも胸に抱いていくのだから、これから先にある未来は、鮮やかであるに違いない。これは確信であり、核心である。

ときに、THE BACK HORNに特有であるのは、剥き出しの感情を包み隠さずに表出し続けているところだと思う。この姿に情緒が幾度となく掻き立てられ、やむにやまれず惹かれてしまうのだろう。どうしようもなく心の底から魅了されてしまうのだろう。今となっては、彼らと出会わない世界を想像できるわけもないけれど、ただたしかなのは、THE BACK HORNと出会えたからこそ知るに至った心の揺らぎがあるということである。

心が震える瞬間に幾度となく立ち会えることを、私は歓びと呼びたい。THE BACK HORNは、歓びを絶え間なく与えてくれる眩しい光であって、輝き続ける白色矮星のごとき存在である。彼らに出会えたという事実がある、それだけで、私の人生はたとえどれだけありふれていようとも、大成功だよなァとサムズアップしたくなる。
さて、『イキルサイノウ』という力作について一心に綴ろうとする試みをここでようやく終える。まだ語り切れない想いがあることは間違いないし、正直に言うと満足しているわけでもない。だけど、良くも悪くもここに連ねた言葉こそ、現時点における等身大の私であり、まぁ悪くねぇかな、なんて思えたりもする。個人的な意見でしかないけれど、自己満足は大事です。

恣意的な行為に過ぎないのだとしても、ただたしかな想いというのは、先行きが不透明な時代にあって私を支えてくれる一助にもなるだろう。これまで詳らかにすることがなかった面映ゆい気持ちだって、書き留めることによって消えずに遺ってくれたら、ちょっぴり恥ずかしくもあるけれど、素直にうれしいと思う。さあ、「鮮やかな未来」に向かって歩き出しましょう。次は、どのアルバムに照準を合わせようかな。