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THE BACK HORN 「花びら」|心の余白が齎すもの

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「幸福な亡骸」の静寂を打ち破るように鳴らされる「花びら」のメロディーは楽し気で、陽気で、でもどことなく悲しみの面影もある。この曲を聴いていて、めくるめく、という言葉が思い浮かんだのは、「花びらが落ちて季節が過ぎて」*1とあるように、季節の移ろいが真っ先に表現されているからかもしれない。

ハーモニカの音色がいい味を出している。幼少のころ、私もハーモニカを吹きたくて家にあったハーモニカを吹いてみたけれど、狙った音をちっとも出せなくて、結局そのまま触れることはなかった。ところで、「花びら」ってMVあったんだね。作成時期が作成時期なだけあって、もはや少年の4人。みんなの無邪気な様子が見れてうれしいし、楽しそうな様子がとても愛おしい。

さて、5曲目の「花びら」。相変わらず私の足取りは覚束ないですが、もう少しで折り返し地点です。『イキルサイノウ』に収録されているのは11曲だけれど、錚々たる顔ぶれに曲数を感じさせない威力がこのアルバムには秘められている。名作たちの躍動を刮目せよ。

私が「花びら」を聴いて素直に思ったのは、なんとも柔らかくて、やさしい歌だなァということ。思っている以上にシンプルな感想ですが、たぶんこれが核になって、そこから様々な枝葉が伸びていっているような気がする。数多の毒を知りながらも、純粋無垢の魂を灯してひたむきに生きている、そんな印象が全体的に感じられます。こうした穏やかな曲を聴いていると、THE BACK HORNのやさしさを改めて実感して、なんだか目頭が熱くなる。

THE BACK HORNの曲を聴いていてひしひしと感じること、もとい心の底から湧き上がるような共感というのは、訥々と語るように静かで、それでも錨を下したように堅固なのだ。

それは激しく頭をぶんぶん振って激しく肯定するというよりは、この目にさやかに映らずともその実ダイヤモンドのように硬い意思である。あるいは、真っ赤にぼうぼうと燃え盛る炎というよりは、青く煌々と静かに燃える炎である。そんなふうに重度の高熱を帯びた青い炎を燃やすような、そんな共鳴が心にたしかに灯る。だから、きっとどこまでもどこまでも、この熱さを携えていけると確信している。

人生という名の長いレール
ゴールなんて何処にあるのだろう
立ち止まる事がとても恐くて
いつも走り続けてきたけれど
THE BACK HORN「花びら」、2003年

「人生」と一口に行ってしまうと渺茫とする道のりの長さに眩暈がするので、目の前に人参をぶら下げられた馬よろしく、ほんの少し先の未来にたしかな希望を宿して、なんとか生きていくことが私なりの生き方であるように思う。刹那的な生き方だったとしても、何かを続けることができているだけ多分マシだ。

騙しだましでも日々をしっかりと越えていくこととか、惰性でもいいからなんとか仕事に行くこととか、なんとかして愛想笑いで乗り切るとか。でも、何かの拍子に停止してしまったときのことを考えてみると、おそらく時間どおりに起きることさえままならず、仕事にはもちろん行けないだろう。そして愛想笑いで取り繕うことも多分できなくなるにちがいない。そんな強迫観念が肚のなかで蠢いている。

やむを得ず立ち止まらずにいることについて「夢中な時には気付かないものがある」*2と言い切ってくれるところからも、「花びら」のやさしさを感じてやまない。おこがましいことこのうえないけれど、日々を越えるための惰性であっても「夢中な時」と肯定してもらえているような気がして、肩の荷が下りるような気持ちになれるのだ。

誰かに肯定されることをよすがにするつもりは毛頭ないけれど、歩いている途中で不意に出くわした誰かからの肯定に救われることがあるのも、事実である。

そういえば、「花びら」というタイトルを聴いて思い出すのは、「ゆっくりでもいい歩いて行こう 自分の旅路を」*3というフレーズ。どれだけ久しぶりに聴こうとも、このフレーズは瞬く間に甦り、私の手を引いてくれる。

こんな私でも、こんな私の人生を歩いて行けるのは、こんな私だけだから、私にはその役目を全うする責任がある。完璧なわけがあるわけもない傷だらけの人生を、それでもゆっくり歩いて行けば、それだけできっと悪くないということ、そして立ち止まることで目に入る情景だってあるのだということを、「花びら」はいつだって教えてくれる。なんとも心強い味方である。

ゆっくりでもいい歩いて行こう
自分の旅路を
ああ僕等遠回りしたって
時には立ち止まればいいさ
同上

最短距離で到達しなければならないと、正体不明の何かに駆り立てられては、焦燥に苛まれ、藻掻く。そうやって心の余白は知らず知らずのうちに塗り潰されていき、余白が蝕まれたことに気付けないまま、私たちは空の色や季節の花を容易く見過ごしてしまう。

立ち止まることはたしかにとても怖いけれど、心の余白を喪うことのほうが、よっぽど怖いことではないだろうか。だから雲の形が目に映るとき、おそらく心にはちゃんと余白がある。それはある種のバロメーターでもあるのかもしれない。

そうは言っても、最低限続けなくてはならないことに関しては、立ち止まらずに続けてしまうのだと思う。ただ、それ以外の場面などで、たまに立ち止まって空を見上げることができれば、気付けることは案外多くあるのかもしれない。だから私は、それくらいの歩調で、自分だけの旅路を踏みしめていきたい。

心の余白を携えて、新しい季節の来訪を、あるいは世界の蠕動を、肌で感じ続けたい。

*1:THE BACK HORN「花びら」、2003年

*2:同上

*3:同上