惰弱な精神について
ランダムかつ唐突に落ち込む期間がやってくる。かれこれ思春期からそんな調子だったので恒例行事ではあるのだが。
明滅を繰り返すように切り替わる情緒に絆されることにも漸く慣れてきた気がするけれど、だからと言って涼しい顔でやり過ごせるほど出来た人間ではない。せいぜい「あ、くるぞ、これは」と予兆を感じるくらいが関の山だし、「ああ、またか」と思えるようになった程度のへなちょこである。何か明確な理由があって落ち込むわけでもないので、今のところはただ沈潜しながら凌ぐほか手立てはない。
飽きるまで、沈みきるまで、ただただ落ち込む。理由もなく落ち込むときは、何に対しても抗わないほうがよいのかもしれない。
とはいえこうした精神状態が、否応なしに続いていく日々にそぐわないのも事実である。ふとした拍子に涙が流れてくることや、普段は何気なくできている日常生活の営みが滞ってしまうこと、いつもは己の背中を押してくれる音楽でさえも聞けなくなること。
どれもしょうがないけれど、どうしようもないので、はて?と首をかしげながら、落ち込みは続く。普段の拠り所に頼れないとなると、どうしたらよいものだろうか。何も考えずにIQ3でも分かるアニメを見てぼーっとすることくらいしか今のところ具体策はない。
とはいえここで「自分は本当に心底ダメだな」と自虐的になったところで回復の余地がないことはすでに習得済である。どれだけダメな自分だったとしても自虐も罵倒もしないことが大事だよ、と空元気な状態で白目を剥いている。
こんなときだからこそ自分を丁寧に扱ってVIPのごとくもてなそう!という発想もあるだろう。できるだけ栄養バランスの整った食事を摂り、適度な運動を行い、温かい湯舟に浸かる。そして洗い立てのシーツとおひさまの匂いがするパジャマに身を包んで夜を越す。巷で流行っている、いわゆる「ていねいな暮らし」なるものはたしかに心によい。私としても極力心がけている生活様式だ。
けれどそうした「ていねいな暮らし」を完遂するためには、当然ながら栄養バランスが整った食事を作れるだけの労力と材料が必要で、温かいお湯を張れる状態の浴槽を準備しなければならなくて、寝具をきちんと洗濯してお外に干さなければならない。
普段ならば問題なく行えるそれらがどうしてもできなくなってしまって、ふつうのことをふつうにすることの難しさを実感した。「ていねいな暮らし」は相当の労力のうえに成り立っているとんでもない暮らしだったのだ。今更そんなことに気付いて、普段の自分を賞賛した。それくらい健康ではあるのだけれど、ああ、めんどくせえよすべてが、と惰眠を貪っている。
重い腰を上げて、とりあえず炊飯器に材料をぶち込んでできたスープの味が、いつも行く居酒屋でいただくスープととてつもなく似ていたので、なんだかじんわり泣けてきた。これを食べて元気を出そう!とか明日はがんばろう!とか、残念ながらそんなふうに思えるわけではない。それでも、ご飯を食べて泣くことができるくらいにはまだ生きていたいと思っているみたいなので、少し安心している。
浮き上がるのがいつかは判らないけれど、否定してもしょうがないので、落ち込んでいる自分ともうしばらく過ごしてみようと思う。こういうときの対処法をいくつか用意しておきたい。元気になったらでいいので。今は少し、疲れました。普段の300億分の1くらいのエネルギーで生きます。