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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「フリージア」|胸に咲く一輪の無垢

フリージアは、3月から4月にかけて開花するらしい。そんな情報を目にしたので、これから咲き始める花に想いを馳せながら、「フリージア」についてしたためることにした。春の匂いが漂う2月末日。今年もあと、残すところ10か月か。

THE BACK HORN「フリージア」。おそらくこれは、あまり明るい曲ではない。五月雨という言葉が出てくるので、晩春に咲いたであろう花が長雨に打たれて散っているさまを想像してみる*1

それはもしかすると、命が途絶える瞬間とも言えるのかもしれない。終わりを迎える花、それは季節を巡るごとに見受けられるよくある情景に違いないのだが、夏の空気を孕んだ五月雨に散る花というのがTHE BACK HORNには一等似合うように思った。「太陽の花」のMVがそう思わせたのかもしれない。


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フリージアに話を戻そう。一般的にフリージアは、慈しみや愛や、誠実などの象徴だそうだ。春先に開花するから、「春の到来を告げる花」でもあるらしい*2。様々な色の数だけ花言葉なるものも散りばめられているようだが、表題のフリージアはどんな色味を帯びているのだろうか。

間奏で山田将司が語るドイツ語に、はじめは全く気が付かなかった。自分が学ぶようになってようやく聞き取れた”Ich liebe dich”に鳥肌が立ったことを憶えている。

あの瞬間は、まさしくアルキメデスばりの「ヘウレーカ!」だった。そうこうするうちに、なんとなく聞き取れたので書き出してみることにした。私には残念ながら和訳のセンスが全くないので簡単な解釈だけ差し挟もうと思う。どう足掻いても中途半端になることをどうかご容赦いただきたい…。

Komm her mein Junge
Lass mich dir behutsam den Hals umdrehen
Zärtlich zusammen kuscheln in unserer ewigen Welt und aufblühen
Dann wirst du sagen; ”Ich liebe dich Freesie”

2行目の文章から解るのは、「私の少年 (Mein Junge)」に対して「やさしく殺してあげるよ(Lass mich dir behutsam den Hals umdrehen)」と言っているということ。1行目で 「こっちにおいで(Komm her)」と言っておきながら、である。3行目に出てくる「私たちの永遠の世界のなか(in unserer ewigen Welt)」というのは、二人して命を落とすからこその永遠なんだろうか。それとも想像における永遠の世界なのだろうか。

いずれにしてもここでは、私なる者の死についても、これが想像における永遠の世界であることについてもふれられてはいない。永遠の世界において「慈しみながらともに寄り添い、そして花びらのように綻ぶ(Zärtlich zusammen kuschlen……aufblühen)」からこそ、それから「君(du)」が言うであろうこと、それこそが「愛しているよ、フリージア(Ich liebe dich Freesie)」という告白であるらしい。

書いていても何のことであるのか今一つピンと来ないのだが、文法の分解だけしておこう。深意は紐解けそうにないので、撤退!それはそうと、他言語を母国語に置き換えることの難しさを噛みしめてばかりいる。脱線。

罪もなく殺される子供達
飢えながら死んでゆく子供達
かわいそうな かわいそうな子供達
菅波栄純「フリージア」、2007年

罪もない状態というのは、文字通り無罪で潔白であるわけで、その姿は純潔と言っても差し支えないだろう。だからこそ不条理が際立つこの描写は、あまりにも苛烈である。

ところで「無垢」や「純潔」というのは、白いフリージア花言葉であるらしい*3。白に染まったフリージアは、「かわいそうな子供達」の象徴にも見えるし、彼らとは何もかもが対照的である「僕」との溝を際立たせるような冷たい光芒にも感じる。そんな「僕」が「生きながら腐る」であろうことも、痛々しくて目を背けたくなる。

だからこそ、せめてもの冥途の土産として、純真無垢なフリージアに胸を貫いて咲いてほしいと、ひとは希うのかもしれない。胸に咲く一輪の白いフリージアにまみえる、もしかすると、そんな日がいつしかやってくるかもしれない。