メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「サニー」|うねりのなかに見た煌めき


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いつだったかのライブで「サニー」を聴いたときのことなんだけどさ、「大きな手」*1のところで、観客がみんな真顔で手を広げながらおもむろに掲げていて、すごい、異質の風景だった。

興奮気味にそう言ったのは、私の大切な友人だ。たしかに、初めて行くライブはもちろん、普段行くことがないようなバンドのライブに行ってみると、異質で、かつ濃厚な世界を目の当たりにするから圧倒される。そこで出会うのは新世界に等しい。慣れ親しんだ空間は安心できる場所として楽しむことができるけれど、こういう世界もあるのか、とたまには趣向を変えてみるのも新鮮できっと楽しい。様々な楽しみ方を味わえることもライブの醍醐味かもしれない。

自分の世界にないものには、往々にして警戒心を抱いたりもする。異質なものに対して疑心暗鬼になるのは致し方ないけれど、すべてを拒絶するのではなく、まずは大丈夫か、そうでないかを嗅ぎ分けることができるようになればいいと思う。

大丈夫だと判断したからと言って、瞬時に理解することはできないだろうし、共感できるとも思えない。理解や納得が一朝一夕にいかずとも、未知のものに対して頭ごなしに否定することを回避できれば、自分の土壌を豊かにしていけるのではないかと思う。保守的になりがちな部分があるからこそ、これは自分自身に対する警句としても記しておきたい。

だから、知らないものが世界に存在するということはつまり、これから好きになれる可能性を孕んだものが散在している、ということに等しい。娑婆は地獄さながらだと感じているからこそ、私はできるだけ物事のポジティブな側面を見ていたい。そういうわけで、自分が知らないものというのは、好きになる可能性を秘めた存在であると主張したい。

前置きが長くなった。今回は『人間プログラム』3曲目の「サニー」について。何よりもまず「サニー」のイントロって、なんであんなに滾るのだろう。一点集中して貫くような勢いの六弦に釘付けにされて、身動きが取れなくなる。そこでたしかなのは、高まる体温と心臓の脈動だけだと聴き手に確信させるのだ。ここから繰り広げられるであろうダイナミズムの予兆を全身で感じ取っては、身も心も沸き上がるようである。

まるで生き物のような律動を感じる四弦も凄まじい。躍動感のある低音をひたすら追いかけてしまうほどに、この音の運びには並々ならぬ引力がある。そういえば、私はかつてこのベースをコピーしようと試みたような…気がする…。あっけなく挫折したことは言うまでもない…。うっ。

ところで私は「サニー」のジャケットに描かれている青紫色の目と、そこから溢れ出ている涙がとてもきれいだと思う。青と赤が交差するような色が、鉱石のように絶妙な色を帯びた涙が、とても綺麗だと思う。「なみだはにんげんのつくることのできるいちばん小さな海です」*2と言ったのは寺山修司だけれど、「サニー」のジャケットに描画された涙には、その詩を彷彿とさせる深い海のうねりが見える。

『人間プログラム』の歌詞カードにベタ塗りされた「大きな手」は、思わずそこに自分の手を合わせてみたくなるような風体だ。歌詞カードはそこまで大きくないから、物理的に「大きな手」には見えないが、紙面いっぱいに描かれた手はどこか強い引力を放っている。この手がここで描写されている以上に大きく見えるのはきっと気のせいではない。自分の手をぴったり重ねることには無理があるけれど、「大きな手」というのは、やはり「サニー」の象徴なのだろう。

「サニー」は全体的に殺伐とした雰囲気を漂わせていて、そのなかには煌々と燃えるような熱が携えられている。この熱が途方もない切なさとか苛烈さを帯びているから、聴くたびに遣る瀬無い気持ちになるのを禁じ得ないのだろう。私はこの曲がとてもとても大好きなのに、聴くときに沸き立つ想いは、喜びとか興奮とかいう感情を容易く飛び越えていく。これは一体何だろう。

聴くたびに突きつけられるのはおそらく、強烈な存在感を放つ切なさである。楽器たちのうねり、そして叫び声、それらに誘発されるように、切なさというものが胸の奥からジリジリと込み上げてくるのだ。方々から収束する感情はもつれながら混沌としたエネルギーになって、色とりどりの言葉を見つけようとしている。

私にとって「サニー」とは、この混沌であり様々な感情の錯綜である。複雑に入り組んだ感情を解剖することは一筋縄ではいかないから、まずはあるがままを受け入れ、それらのもつれを知っていくことが端緒になるだろう。気長に向き合うことで、いつしか複雑な感情を解剖できるようになるかもしれない。様々な言葉を食み、感情が何であるかを知ることができたとき、分節できる世界もきっと増えているにちがいない。

僕ら 有刺鉄線を越え 何も知らないままで
夢見るように笑ってた
ここから見下ろす景色が 世界の全てと思っていた
THE BACK HORN「サニー」、2001年

この歌詞を目で追うとき、山田将司の叫び声が脳内で反響する。もはや細胞に刷り込まれたと言いたいくらいには、自身の糧になっているのだと思う。ところで、ここでも語られていることではあるが、自分が今いるこの場所が世界の全てだと思ってしまうことは往々にしてある。

特に自分の行動範囲が限られているうちは、この傾向が強い。一度その価値観を払拭することができればそうした見方はいくらでも刷新されていくし、これまで思っていたことをまやかしだと吹っ切れるくらいには視野が広がるのを肌で感じもする。が、渦中にいるときに視野を広げることは、やはり難しい。もしかするとこれは、大人や子どもに限った話ではないかもしれない。

大人とか子どもとか、そのあわいに居続ける気持ちになるのはどうしてだろう。例えば傍から見れば私は立派な大人で、私を子どもだと言う人はおそらくいない。当の本人にしてみれば、子どもと称するのも烏滸がましいけれど、大人になりきれやしない大人だと思っている。成人してからもう10年も経つにもかかわらず、である。

ただ、なんとなくの感覚ではあるけれど、誰もがこういう感覚を抱えながらジタバタするのかもしれない。そう思ったのは、大人なのか、子どもなのか、そのあわいで歯がゆい気持ちを抱え藻掻いているような、そうした葛藤を「サニー」を聴いていて、不意に感じたからである。

大きな手 僕たちの心 奪って消えてった
雨上がり この空
虹が見えたら 闇と光の尾を引いて
明日へと行こう
もう二度と戻らない
同上

礫になって降りそそぐ想いが切なさや痛みに変換されるのは、この声がただの叫び声に留まらないからであろう。この叫び声の裏には歌声として表出されない想いも込められていて、それは声そのものに込められているというよりも、眼力であったり、表情であったり、彼ら自身を媒体として観客に向かって放たれているように感じる。これこそ、魂ではないだろうか。

彼らの楽曲を聴いてきた日々は、彼らのパフォーマンスを目撃してきた瞬間は、大切な大切な思い出として、私のなかにも息衝いている。こうして地層のように堆積した大切な思い出には、魂が切り分けられた痕跡が留められているのだ。魂の叫びが集結した宝石、それこそTHE BACK HORNが奏でる音楽である。

魂の欠片が自身のなかにも散りばめられているということ、それはすなわち何よりも美しい宝石を秘めているということに等しい。魂を切り分けてくれてありがとう。これからも、どうか末長く、よろしくお願いします。

*1:THE BACK HORN「サニー」、2001年

*2:寺山修司『愛さないの、愛せないの』、ハルキ文庫、2000年