メメント

両手いっぱいの好きなものについて

情動を灯し続けろ

自分でそう感じているだけだから、〈光〉が私を意図的に追い詰めようとしているわけではもちろんない。ただ、やむにやまれず、そう感じることから抜け出せなかった。これはその記録である。光に追い詰められ、光から逃げた私がもう一度光に向かって進もうとする話。

私にとって〈光〉とは音楽、さらに言えばTHE BACK HORNであり、amazarashiである。後者は私にとって光と影が一体になっている存在でもあるから、突き詰めれば光とはTHE BACK HORNその人たちを指す、と言ってもいいかもしれない。

光、もといTHE BACK HORN。私にとってTHE BACK HORNは自身を貫く存在であり、魂である。

でも、そんな光にも触れられなくなることが、時々ある。定期的に彼らの音楽を聴けなくなるのだ。もちろん、食指が動かなくなったからではない。考えても考えても、その理由は今でもよく解らない。

そのときの感覚は、眩しすぎる光から逃げ出したくなるような感じ、とでも言えばいいだろうか。逃避している最中にあたかもサーチライトで照らし出されるような思いがして、光が放つ眩しさに耐えかねるのである。まさに〈光に追い詰められている〉という感覚を抱く。

あらかじめ強調しておきたいのは、THE BACK HORNという光を否定するつもりは毛頭ない、ということである。これはあくまでも自身の弱さに起因した逃避行に過ぎない。彼らが自身に掛け替えのない存在であることは揺らがない事実である。

とはいえ、掛け替えのない存在であるという事実は揺らがずとも、自身の情緒は容易く翻弄される。一枚の葉が風や波に煽られるように。不安定な情緒のままだと、光に手を伸ばすことさえできなくなるのである。

これといって明確な理由はないが、なぜか敬遠してしまう。好きだと誰かが話しているそれさえも、耳にも目にも入れたくない。光が放つ眩しさが時に途轍もなく怖くなって、その眩しさから逃げ出してしまう。今回に限らずとも、定期的によく起こるこの事象。

言ってしまえば、心が疲れている、その一言に尽きるのかもしれない。では、どれだけ待てば恢復するのだろう。それに、そんなもの、どこでどう判断することができるだろう。たしかに蠢く違和感を、どうすれば紐解くことができるだろう。

明確な答えは出せないまま、何も腑に落ちないまま、今日が明日になっていく。

こうなるたびに痛感するのは、心に元気がないと文章を書くことはおろか、大好きな音楽も聴けなくなる、ということである。それどころか、あまつさえ自己嫌悪も首をもたげてくる。

何もできない、好きなことすらままならない、いろんな人の交流を見るのでさえもつらい。毎度のことだと解っていながらも、あまりにも不適合が過ぎる。

こんなときに、できることは何があるだろう。ボロ雑巾みたいになった精神を引っ提げて少しばかり浮上してきた最中でようやく思えてきたことがある。

それは、愚直に、ただ待つということである、と。

待つことは不安である。いつになっても、そのときは来ないかもしれない。もしかすると、もうずっと聴くことができなくなって、そうこうしているうちに、指の隙間から砂が零れ落ちるように大切だった気持ちも無くなってしまうかもしれない。そうした恐れがたしかな不安になって行く手に影を落とす。

焦ったところで、音楽さえ聴けない状態である。他のことができるとは到底思えない。それでも、唯一できそうなことである〈待つこと〉さえもせずに、わかりもしない未来に怯えることも性に合わない。

ボロ雑巾みたいな精神を引きずっているくせに強がりたがるのが私である。

だから、思い切って、あきらめモードで腰を据えてみることにした。幸いなことに、なすすべもない私にできることがあるとすれば、待つことである、と思える精神は残っていた。いつになるかは知らないよ、と嘯きながら、待ってみようと思った。

不思議なもので、そんなふうにしてあきらめモードにさしかかったときに、あるいはさしかかったときだからこそ、やおら動き出すものがあるらしい。

ふとしたときに甦る歌詞が胸を叩く。そのたびに思い浮かぶ。彼らの歌とともに、これまで一緒に生きてきたではないか、ということが。滲んだ油性マジックに触れて涙が出てくるくらいには、掛け替えのない想いが心に根付いているということが。

できるだけ客観的に、かつ冷静になって振り返ってみても、15年以上好きなものは、そうそう自分のなかから抜けるわけがない。これは何も私に限ったことではないはずである。15年以上好きな何かを、そう容易く手放せるものか。

たとえどれだけ遠ざかっても、もしかしたら離れてしまったとしても、それを好きだったことは、形を変えながらも自分のなかに確実に残るはずである。

3日坊主の私が15年も好きなものはほかに何があるよ。いい加減自信を持てよ。意気地のない自分に向かって、強がりな自分が発破をかけるようである。

しばらくの間聴けなくても、たぶん大丈夫。好きだと思う気持ちはたしかだって、自信をもってあげていい。

それらを思う気持ちがたしかだと自信をもってあげることは、たとえそれがどれだけ幽かな光だったとしても暗闇に差し込む光であることにはちがいない。

もしかすると、遠ざかることによって、改めてその光を欲するようになることがあるのではないだろうか。近すぎるとたしかに眩しすぎて何も見えなくなるから。どんなときも適切な距離を保つことはとても大事なのかもしれない。

今だからようやく言える。光に追い詰められているならば、その光から遠ざかって、もう一度そこに向かって進めばいい、と。

失った光を改めて取り戻すことで踏み出せる一歩がある。そんなふうに考えることもできそうである。

彼らはいつだって煌々と輝いている。見失うはずがない光である。それを目印に進むことは、これまで何度も性懲りもなくやってきている。

きっと、あと少しで聴けるようになる。あと数日もすれば、あるいは、数週間すれば。今はまだ手を伸ばせなくても、何度でも手を伸ばせばいい。戻ったり進んだりしながら、自分なりに愛したらいい。誰と比べるものでもない。

その日が来るまで、何でもいいから書き残せ。彼らの楽曲について書けなくてもいい。感じたことをできるだけ書き残せ。虚無に蝕まれるな。できるかぎり情動を灯し続けろ。