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THE BACK HORN「美しい名前」|銘々の解釈を差し挟むこと

THE BACK HORN全曲レビューをもう一度立て直したいので、いけしゃあしゃあと『THE BACK HORN』の続きを続けます。しゃあしゃあ。

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「美しい名前」という名前それ自体が美しい。美しいものは数多くあれど、これ以上に美しい主題を私は知らない。ちなみにMVはマッチ編のほうが個人的には好きだ。煌々と燃え移る炎が徐々に燻るさまが命を描写しているようで切なくて、悲しみを帯びているから。

ライブで聴くことができたら、それはなんと神聖な空間になるのだろう、と想像しては、ライブで聴ける日を心待ちにしていた、何年もの間。そうこうするうちに、そういう希いが思いがけなく叶ったりもする。そのたびに「上海狂騒曲」よろしく、「人生は悪かねえ 良くもねえけど」*1という気持ちになる。

音楽に限ったことではないが、様々な作品には、それを受け取ったひとが新たな解釈を書き加えることができるような余白があると思う。平たく言ってしまうと、THE BACK HORNの一つひとつの楽曲に、私にはそれぞれ特別な思い入れがある。

時の経過がすべてでは無いにしても、10年以上を経たからこその色々が散らばっていることもたしかで、或る一つの楽曲にしか宿ることのない思いがあることは、感慨深い事実だ。この「美しい名前」にも「美しい名前」にしかない思い入れ、あるいは書き加えた解釈があるのだが、それを勝手気ままに綴ることを許してほしい。

15年来を共にしたグレーの猫がいた。野良猫から家族になった気高い子。たった一匹の、掛け替えのない友人。最期まで気品に満ちていた、美しい子。猫だから、という単純な理由で、私たちはその子にごくありふれた名前を付け、その名をいつも呼んだ。あと何回名前を呼ぶことができるだろうか、無常な問いを自分自身に投げかけたとき、命の重さはもちろんだが、名前の尊さを一等強く噛み締めたことを憶えている。「美しい名前」とは、このことを言うのかと、腑に落ちた瞬間でもあった。

そうした情景がずっと心の奥にある。忘れることもないから、思い出すこともないような出来事。これはきっと「世界で一番悲しい答え」*2というやつにちがいないのだが、その「悲しい答え」を一生携えたいと思ったし、この悲しみは何が何でも希釈したくないと切望した。これは、私だけの悲しみだからだ。

「美しい名前」を初めてライブで聴いたとき、轟音が反響するのになぜか静謐で、揺らぎのない空気を感じた。聞こえるはずのない呼吸音さえもノイズに感じるような、キンとした空気。思考がクリアになったそのとき、ふと思い出したのはグレーの友達のことだった。

何度だって呼ぶよ 君のその名前を だから目を覚ましておくれよ
今頃気付いたんだ 君のその名前が とても美しいということ
菅波栄純「美しい名前」、2007年

「美しい名前」を聴くたびに思い浮かべるのは、いつだってグレーの子のこと。もう一度、もう何度でもあの子の「美しい名前」を呼びたいと思うのだ。そうした解釈を書き加えて、割り込んでこようとする感傷を丸めて投げ捨てる。感傷には用はない。私たちが憶えているということ、そのなかだけで生きるあの子を今でも愛していること、そうした灯があれば、あの子が消えてしまうことはない、そう思う。

名前、それは個体を判別するための記号、恣意的につけられた印のことでもある。それでも、あの子に名付けたこと、はたまたこれから迎える家族に名を与えること、そしてその名を呼び続けること。きっとそれは愛を注ぎ続けることなのだと思う。だから私は何度でも名前を呼びたい。大切なものすべての名前を、呼び続けたい。

「美しい名前」に込められた悲しみに一条の光を見出して、またライブで聴ける日を心待ちにしている。

*1:菅波栄純「上海狂騒曲」、2005年

*2:菅波栄純「美しい名前」、2007年