メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「光の結晶」|光が凝縮された生命体に伸ばす手

「光の結晶」をアントロギアのツアーで堪能できてご満悦の私です。イントロが掻き鳴らされるたびに、それが何回目かのことであっても、毎回表情が綻んでしまう。

MVで暴れる4人は当たり前だけれど若々しくて、どこか危なげな雰囲気を漂わせていて、それらの印象とは対照的な4人の鋭い眼光が一際目立っている。まるで生きることは苦しい、と言わんばかりの表情で銘々が叫んでいるかのような、この光景から目が離せない。

MVが終わりかけたと思いきや、「生命線」のイントロが不意に流れるところも、山田将司が息を吸った瞬間にそれが途切れるところも、グっとくる演出で、とにもかくにもいけずです。これはまた、別のお話。

youtu.be本筋に戻らねば。「光の結晶」は躍動感の連なりが目覚ましく、ここから始まっていくんだな、という生命力が横溢している。「光の結晶」を聴いていると、どんなライトよりも眩い光芒が一閃する情景が目に浮かぶので、それだけでもすでに目がくらみそうになります。「乱反射するキラメキの中へ」*1という一節がこの風景を想起させるにちがいない。だからこれは幻覚ではありません。

「光の結晶」においては、一貫して体現されている夏が燦燦と輝いていて、颯爽と駆け抜けていく描写が際立って瑞々しい。ここで脈打つ夏は、活き活きと力強く呼吸をしている。以下の歌詞からも、熱い情動が伝わってくる。

希望なんて 言葉だけじゃ感じない
だから深呼吸 歌い出す口笛
下手だって構わない ただ
遣り切れぬ日々 振りほどくように
THE BACK HORN「光の結晶」、2003年

しかしながら「光の結晶」からは、どういうわけか幾許かの切なさを纏っているような印象を受ける。それはなぜか。切なさのわけを紐解くために、まずは夏に対するイメージを整理したい。

年を追うごとに狂暴になっていく現実の夏は、お世辞にも過ごしやすいとは言えず、個人的に好きとは言い難い季節である。あまつさえ冬生まれの私にとって、夏の暑さとは抗しようもなく敗北してばかりの客人である。それなのに、概念における夏という季節には、他の季節とは比べ物にならないくらいに「切なさ」が詰まっているように感じられ、電灯に吸い込まれる蛾のごとく無性に焦がれてしまうのである。

概念上の夏は、なぜこんなにも眩しく、これほどまで遣り切れなさを掻き立てるのだろうか。どこまでも広がる青空、ふくよかな入道雲、青々と伸びた体躯を風に揺らす稲、田舎で育った私にとって概念と呼ばれる夏は、たしかに私がこの目で見てきた風景でもある。

望郷にも似た感傷は、4つある季節のうちの夏に照準を合わせ、その凡てをこの季節だけに託しているようである。だから実際の夏が到来するたびに特別切ない気持ちになるのかもしれない。

夏を具現化した「光の結晶」を切ないと感じたのは、個人的な思い出や思い入れが結びついた恣意的な感覚に過ぎないということも否定できないのだが、それでもやはり、THE BACK HORNが奏でる夏の歌だからこそ、切なさにも拍車がかかることは揺るがない事実であると主張したい。というのも、端的に描写された青さが至る所に息づいているからである。

声にさえならなくて きっと
約束だけが繋ぎ止めてる
海を見に行く 背中に触れている
消えそうな熱 確かめながら
同上

「背中に触れている」という状態もさることながら、「消えそうな熱 確かめながら」という表現がとても奥ゆかしくて、切ない。だってきっと熱は消えてしまうから。どれだけ残っていてほしいと願っても、徐々に薄れていくから。

それでも、薄れていくためには、薄れることができるだけの痕跡が必要だ。存在の証とも言えるような熱量があるからこそ、それが消えてしまうときには、存在していたことが際立つのである。

愛おしいと感じる事象が消えゆくことを肯定的に捉えることは容易ではないが、新たな視点を与えてくれる言葉に出会えると、遣る瀬無い事実は変わらなくとも、少しだけ、息がしやすくなるのを実感できる。

貴重なものが傷つきやすいのは美しい。傷つきやすさは存在の徴だから。
シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』、岩波文庫、2017年

この言葉を頼りに敷衍することが許されるのであれば、「消えそうな熱」も存在の証だと解釈できそうである。失うことの遣る瀬無さを憶えながら、私たちは少しずつ大人になっていくのだろう。きっといくつもの約束を果たしながら、もう二度と戻らない夏を通り過ぎて。

そういえば、約束だけに繋ぎ止められている感覚というのは、おそらく次のライブを目印にしたことがあるひとであれば、きっと肌で感じていることだろう。ライブに限ったことではないけれど、夏に冬服を買うとか、冬に夏服を買うとか、ちょっと先の未来を想定した行動によって、私たちの活力も先延ばしされていることはおそらく間違いない。

誰かとの約束、あるいは自分との約束、それらを守ろうとする気概があるならば、何が起こるか判らない日々とはいえ、きっとこれから先も生きていけるはずだという直感を、私はそっと胸に秘めている。またいつか、一閃する光を目の当たりにできるように。

乱反射するキラメキの中へ
そしてここから始まってゆけ
躓きながら 光の結晶に
何度でも手を伸ばす俺達

THE BACK HORN「光の結晶」、2003年

漂泊する夏の面影を一切合切掌握したこの歌は、それ自体が「光の結晶」として輝きを放っている。それを叫び歌う彼らも同じく眩い光で、私はそれを涙で霞んだ視界越しに見ている。この視界越しに見える世界は、まさしく乱反射したようにキラメキながら、掛け替えのない情景を脳裏に焼きつけてくれる。

もちろんそのなかには、アントロギアのツアーで享受した光も糧の一部に組み込まれている。「始まってゆけ」と強く放たれる声とともに、何度でも何度でも、この光にこそ、私はこれから先も手を伸ばし続けるのだ。

*1:THE BACK HORN「光の結晶」、2003年