メメント

両手いっぱいの好きなものについて

ふかふかの食パンを食べたい話

猫の引っ掻き跡みたいな三日月が西の空にぽっかり浮かんでほくそ笑んでいた。澱んだ用水路は夜を纏って、まるで清流であるかのように澄んだ顔をしながら、水面に反射する街灯を装飾品のようにゆらゆら煌めかせていた。僕は青い星を夜空のなかに探しながら、消えそうな大三角形の真ん中をめがけて帰路についた。「ああ、別にどうともないけれど、今日も疲れましたな。」

「お店で見かけて、なんか君これ好きそうだなアって思って、買っちゃった。」そうやって屈託なく笑いながらおすそ分けしてくれるあの子と仲良くなったのがいつのことか、よく憶えていない。だけど「きっと、あの子はこれが好きだろうなア」と、誰かを想いながら何かを選ぶ時間が自分にも存在すること、そしてそういう存在が私にも居るということは、何にも代えがたい、とても幸せな経験なのだと思う。それは、野矢茂樹先生の『ここにないもの』のなかでエプシロンと対話するミューがこう語るのと似ている。

それからぼくね、トットさんにはじめて会ったとき、おはようって言える人が一人増えたのがうれしかった。
野矢茂樹『ここにないもの』、中央公論新社、2014年

本当に、ここで描写されたのとまるっきり同じ気持ちなのだろうな、勝手にそう思っている。朝起きたら枕元に100万円がありました!というようなビッグに賑わいをもたらすような話ではないけれど、「おはようって言える人」の存在が日々を超えていくなかではやっぱり必要で、豊かさはこうしたところから綻んでいくのだと、確信している。「ねえ、コレコレは好き?」って訊いたら「終わりがないから一旦やめよ!」と言われたけれど、懲りない私はきっと「好きそうだなア」をまた渡してしまうのだと思う。

大丈夫であることが前提にされる日々のなかで、大丈夫じゃないことと大丈夫であることの狭間を覚束ないながらも歩いている。そこにはもしかしたら、いつか大丈夫になることを願っている祈りが込められているのかもしれないけれど、今となっては「大丈夫であること」よりも「大丈夫じゃなくてもいい」、それくらいの前向きな諦めを携えられるほうが、よっぽど気が楽だ。「大丈夫じゃない」と言えることは、ひょっとすると「大丈夫」と言える以上に勇気がいることなのかもしれない。そうそう大丈夫であってたまるものか!
大丈夫って胸張って言えるわけでなくても、約束をすっぽかされても、紙パックのストローを上手に取れなくて落としちゃっても、「君の頑張りを見てくれているひとが必ずいるよ」と言うひとが私の頑張りなるものを見てくれているわけではなくても、明日は美味しいご飯を食べようね、って、そんなささやかな約束を必ず守ろう。春めいた桜色のラベルが可愛いお酒をサラサラ嗜みながら、とっぷり更ける春宵なるかな。