メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「8月の秘密」|決壊した感情の深遠さについて

今年も瞬く間に夏が終わった。少し汗ばむ陽気になることもあるが、金木犀の香りを風に乗せた空気はまごうことなく秋のそれで、もう戻らない夏を思うとほんの少し感傷的になる。そんなことを繰り返してばかりいる。きっと秋は夏よりも短いから、夏よりも足早にここから立ち去って冬が到来するのだろう。

季節の移ろいに眩暈を覚えそうになりながらも、今ここで照準を合わせたいのは夏である。もう戻ることのない夏である。これは、8月になると必ず聴く曲。否、8月でなくとも聴きたい曲ではあるが、「8月」と銘打っているこの曲を聴かずして俺の8月は始まりもしないし、終えることもできないと個人的に思っている。今年の8月はもう終わってしまったけれど、今年の夏を偲びながら、「8月の秘密」についてしたためたい。

静けさを一瞬で攫っていく轟音。化け物かと思うくらいに途轍もない威力を持った「8月の秘密」は、一瞬で過ぎ去る夏のように儚さを感じさせもするが、この曲の中核には漲る力強さが込められていて、ここでも命が燃えているのだと確信させる。

それは線香花火さながらの繊細さを携えながらも煌々と力強く輝く姿であり、そこには潔さも同席している。こうした隔たりによって情緒はことごとく揺さぶられる。誰しもが多かれ少なかれ持っている性質だと思うけれど、こうした揺さぶりに一等弱いのは私も例外ではない。二面性が織り成す魅力は危うくも甘美で、とにかく蠱惑的なのだ。

こんな儚いのに離れてしまうのか
息をひそめる君の鼓動感じてた
THE BACK HORN「8月の秘密」、2001年

出だしから全力で奏でられるこの曲に、まるで射竦められたように呆然と立ち尽くしてしまう。開始からわずか数秒間の出来事とは思えない奥行きがあり、なすがままにこの曲のなかに引き込まれていくのだ。

そして電源を落とすように轟音から静寂に切り替わる瞬間、思わず歌詞にあるとおり、私は息を潜めたくなる。静と動が絶妙な均衡を保つさまは、表面張力が働いたコップのようにギリギリのところで決壊をこらえているようにも感じるし、事実これは決壊の予兆でもあると思えてならない。

あくびのせいだよと
いったのに笑われた
うそつきせみの声が
えいえん鳴りやまない
大人はやさしい顔
すべてを奪っていく
同上

あいうえお作文になっている歌詞から窺える遊び心がとても愛おしい。頭文字の歌詞が「大人」以外平仮名であるところも、少し不気味な雰囲気を纏っていて趣がある。全体的に少しぶっきらぼうにも聞こえる声音も、不気味さに拍車をかけているのかもしれない。

これまでに私が見てきた夏たちがうまい具合に合わさって加工されているからなのかもしれないけれど、ここで夏の蜃気楼と蝉の声に呑まれていくような情景が思い浮かぶのは不思議なことである。

季節が登場する楽曲はTHE BACK HORNのなかでも数多くあり、どれも珠玉の名作であることは言うまでもないのだが、とりわけ目を瞠るのは夏が描き出される楽曲だと個人的に思っている。彼らが描き出す夏はまるで命の最盛期を表すような躍動感に溢れていて、脈打つ命が確かに存在している。

とりわけ「8月の秘密」を聴くと、ジリジリと身を灼くような日差しと蝉しぐれが立ち込めてくるような思いがする。この歌にはヒリヒリとした痛みが走っているからこそ盛夏を彷彿とさせるのかもしれない。ジリジリと照りつける太陽もがなり立てるような蝉時雨も、生命を掻き鳴らす証左と言って差し支えないだろう。「8月の秘密」にはこれらの命が反映されているかのような渾身のエネルギーが込められている。

きれいで汚すぎた悲しいあの秘密は
誰にも言えないから
君に会いたくて泣いた
同上

ここから先で目の当たりにするのは、感情が決壊する瞬間、とでも言えるかもしれない。沸々と混みあがる熱は、これまで堰き止められていた感情が閾値を超えて溢流していく起爆剤になっている。

特にここから先の部分を聴くといつもいつも胸の奥を掴まれたようで、そこから情緒も搔き乱され、しまいにはキリキリと苦しい気持ちになる。ただ純粋に好きだと思っているだけなのに、好きという感情は、なぜ苦しみや痛みと隣り合わせなのだろうか。

もちろんここには恋愛的な好きという感情があるわけではないから妬みや嫉みに狂わされるわけもない。恋愛的な感情において痛みを感じることは往々にしてあるという向きもあろうが、ここで抱える気持ちに痛みが付随する理由をうまく解明できない。なぜだろう。なぜ痛いのだろう。
たしかに彼らの音楽を聴くたびに名状しがたい気持ちを抱えることは数多くある。こんなふうに言葉になり切らない歯がゆさのことを私はある種の痛みだと感じている可能性もある。鏡花水月のように説明がつかない深遠さを感嘆すると同時に、言葉にできないことを口惜しくも思うような相反する感情。ふむ、ありえるかもしれない。

ほかに考えられるのは、私にとって彼らの音楽が生き死にの汀に関わるものであるということだ。毎度のことながら大袈裟だけれども、生きたいとか死にたいとかいう声がせめぎ合っているなかでいつも支えてくれたのは、THE BACK HORNの音楽である。大仰であろうともこれはどうしようもない事実だ。

彼らの音楽を聴くと、心の底から湧き出る喜びを知ったり、訳も分からず涙に明け暮れたり、私の心は自分でもびっくりするくらいに武装を解いた状態でいるらしい。これは無防備とも言えるし、等身大の姿とも取れるけれど、とにかくTHE BACK HORNの音楽が飾らない自分をさらけ出せる貴重な場であることはたしかだ。

彼らの音楽が心の琴線に触れたから、何度も何度も背中を押してくれたから、命を賭して関係したいと思える音楽だと思うから、一言で言えば生きていく糧だから。理由を挙げればキリがないけれど、生きることに直結する音楽だから、愛しい(いとしい)と思うと同時に愛しい(かなしい)という気持ちが込み上げてくるのかもしれない。少しはこの痛みを翻訳することができただろうか。うむ…。

また会えるからと踏切の向こう側
遠く伸びる影まばたき一つせずに
同上

夏が終わりに向かうと同時に蝉たちの凋落も訪れる。あれほどまでに大合唱していたのは最近のことではないか、と思う頃にはもう蝉は鳴いていない。今年もそうだった。そんなふうにして、ふっと静寂が辺りを包む瞬間というものが季節には存在する。それは線香花火がジリジリと音を立てながら、あっという間に燃え尽きていく姿にも似ているような気がする。これは「8月の秘密」にも通じる情趣かもしれないということがふと脳裡をよぎった。

追憶のなかに置き去りにした故郷、あるいは少年時代、つまりもう戻れない日々は、青空と入道雲のなかにきっとこっそり隠されているにちがいない。たとえ8月が終わろうとも、今年の夏が終わろうとも、線香花火の火玉がジュッと音を立てて辺りが暗闇に包まれようとも、ここで燃える情動はきっといつまでも変わらないのだろう。THE BACK HORNの音楽は、いつだってそう思わせてくれる安心感がある。

この熱を目印にしていれば、たぶんきっと大丈夫である。何が、という具体的な対象があるわけではないけれど、なんでも、きっと、どうにか大丈夫だと、根拠のない確信が胸に灯っている。帰る場所は、やっぱりTHE BACK HORNだ。この確信だけあればいい。