メメント

両手いっぱいの好きなものについて

光について

3年ほど前に書き残した言葉に触れる機会があった。今思えばそうした言葉の数々も、ちょっとした笑い話にもなっている、とはいえ、当時は辛酸舐めるほかなく、打ちひしがれる日々だった。どこまでいってもあるのは否定、それも自己による、間断なき否定。自分にとって自分が一番大きな敵だった。

それからなんやかんやで吹っ切れて今に至る、なんて言うと情緒の欠片もないのだが。すべての原動力になったのはおそらく怒りと後悔で、一つひとつの選択肢やそこから帰結した出来事に未練など無いと断言できでも、今になっても許せないでいることがあるのは事実で、それらを許すつもりもない。許せなくて、いい。それが折り合いをつけた結論だ。

そうは言っても今思うと、よく、生きてきたな、と端々に感じる。いわゆる黒歴史とか、もうどうしようもない自己嫌悪とか、月並みな地獄とか、人並みに受けた傷、身体に空いた穴。そうした痛みを経て形成された今の自分。だとすると、すべての地獄も悪くないね、なんて笑えるまでになった。これまでの決断のなかには過ちがあちこちにあって、枚挙にいとまがないのだが、そう間違えたことこそが正しかった、今の自分が形成されるに必要な間違い、後悔、傷だった、という具合に腑に落ちているし、あらゆる間違いを受容したからこそ、ここに立っている自分が今の最適解だと肯くことができる。こじつけみたいなものだって哂いたくもなるけど、それでも。

だからこそ「道すがら何があった?その答えこそ今の僕で」って、「今この僕があの日の答えだ」って、秋田ひろむが歌う息詰まるほどの切実な肯定に引き裂かれている。好きだと感じる心の揺らぎが、ここまで痛切な熱を帯びるようになったのは、いつの時分からだろうか。自分じゃない誰かと関係することで生まれる摩擦や軋轢、それらを避けては辿り着けない深みや肌理。ヒリヒリと休まらない心の動きこそ恍惚で、身を引き裂かれるような痛みと邂逅してこそそれは愛、なるものと呼べるのではないだろうか。痛みを引っ提げて、遣る瀬無きかな、私はこれからも生きる。