メメント

両手いっぱいの好きなものについて

花の嵐

気付けば世界は彩に溢れて、目がチカチカする。そんな季節が巡ってきた。風の匂いからもそれは顕著に感じられて、冬が去ることを名残惜しく思う。この冬は、雪に会わずに終わってしまった。

冬に蒔いた数多もの抑鬱が萌芽する春、いつもより幾許か饒舌になる春、そうした最中に訪れる別れに、一抹の寂寥を抱える春。地に足がついていない感じがするこの季節を苦手になったのは、いつのことかもう憶えていない。こうした苦手意識の形成は、幼少の頃から幾度となく重ねてきた「サヨナラだけが人生だ」という経験の刷り込みによるものなのかもしれない。

あざなえる縄のように、出会いと別れは交互に訪れる。単に属するコミュニティーが変わることによる別れ、居住区を変えることで訪れる別れ、多分もうきっと完全に会うことはないという別れ、歳を重ねた分だけ重ねた別れ。差はあれど、別れるときはきまって、ちょっとそれなりにとても悲しくなる。思い出なんかを遡ってみたりもする。夢に見たりなんかもする。とはいえたいていは、湯上りみたいにすっきりさっぱりした自分が後々必ず現れる。私がそれくらいの薄情さをいつだって持ち合わせていることを、誰よりも私はよく知っている。そこに自分がいなくなることで、そこにいるひとと関わらなくなることで、端的に情が薄れるのである。どれだけ悲しみや寂しさを感じたところで、時が経てばきっと、飄々と淡々と生活をなぞる自分に戻る。だからこそ、そうした感情の揺らぎを胡散くさくも思うからどこか醒めているし、己の変わり身の早さに救われもする。

そういうわけで、私は今までいた場所から居場所を移すことになる。事情を知っているからなのか、こんなときに限っていつもより親しげに接する周囲の人間たちを現金だと思いながらも、そうした愛想の好さをもちろん憎めるわけもない。いつかくる終わりがあることをはじめから知っていたのだから、平生からもっと愛想を好くしたってよかった、というのはお互い様だ、なんて憎まれ口を叩いてはみるけれど。そうこうして愛着を覚えるくらいには月日を経たようだ。寂しいなんて気持ちだとか、馴染みの名前で呼ばれることも減るんだな、なんて物足りなさは言うまでもないが、こうした感情の揺らぎが一過性のものになってしまうことこそ、たぶんきっとおそらく一番寂しいことなのかもしれない。

もともと手元にあったわけではないが、いろいろな事象との別離があった。ものによっては、拭い切れない悲しみがあちこちに散乱している。だが、単なる強がりだとしても、何につけても無意味だったと落胆する気持ちはない。今腑に落ちているのは、今の私には本当に何もない、ということだ。決してネガティブな意味合いではなく、私には何もない。空っぽな私だからこそ、諦念でも抑圧でもなく、受容というかたちでもって未練と和解をしたい。

美しい思い出は、きっと美しいまま遺るのだろう。だが、それ以上になってもそれ以下になっても、それは己を食いつぶす地獄になる危険性をおそらく孕んでいもする。だからこそ、あの線路沿いの道に咲いていた雑草たちがきらきらと眩しくて、朗らかな春が何よりも美しかったことは事実であってほしい。それは私が記憶している以上に美談にならなくていいし、蔑むように台無しにしなくていい。

これは敬愛しているアーティストの受け売りだが、ただただアゲてくよ~と小首かしげて心技体を総じて盛ってく(裏ピ)ことが、今の私にとって生存戦略にほかならない。ビールの消費がすでに些か早くなった春の日に想う。