メメント

両手いっぱいの好きなものについて

忘れてしまう悲しみについて

あの人に似た無邪気さも後を追うように消失したみたいなんだ。

それからは、打って変わって哀愁が鎮座している。立ち去る様子はない。

気が付くとオリオンが空から消えて、桜はほとんど葉桜になっていた。これは、オリオンと桜を見送ってもなお、未だに咀嚼できずにいることについて文字にしようとする試みである。

あとどれだけ経てば和解できるのか見当もつかない立春の出来事。幾夜を経てきたにもかかわらず、未だにどうしようも受け容れることができない事実。すなわち消化もできなければ、咀嚼もできず、おそらく口に含めてすらいない現実についてここに記す。それは忘れないためではなく、憶えていたいからでもなく、自分自身との和解のために。

折り合いをつけられずに取り残された悲しみが息をしている。私はこの悲しみを口に含めないまま、どうしたら歩み寄ることができるのか逡巡している。

そもそも私はこの悲しみに歩み寄って何をしたいのだろうか。受容したいのだろうか、あるいは折り合いをつけたいのだろうか。自問自答するも、根本的な問いに対する答えは思い浮かばないままだった。苛烈な悲しみであることに違いはないが、24時間延々と悲しみに溺れているわけではない。それどころか悲しみ自体は、歳月とともに些か鎮静されているようにさえ感じるくらいだ。とはいえ、立ち直れたわけではないことは追記しておこう。

私は悲しみを延々と悲しむべきだとは思わない。悲しむことが少なくなったからと言って経験した感情や共有した思い出がすべて消えるわけではないからだ。それでも棘が刺さったような痛みを覚えるのはなぜだろう。この蟠りが、私の悲しみに対する答えを見つける糸口になるかもしれない。

煮詰まったところで、やおら立ち現れた一つの答え、それはこの悲しみが肚落ちする道程に対する希いである。

私は、つらくて悲しいことだからゆっくり受容しようと思っているうちに、悲痛さや衝撃も薄れ、いっしょくたに砂のようにザラザラと風化して「なんだかよく分からないけれど受容することができたすごく悲しいこと」として自分の過去に収束してしまうことが嫌なのだ。

だからといって悲しみを新鮮な状態に留めておくことはできない。今日を生きる約束をしてしまったからには、容赦なく来訪する明日を幾度も迎えていくうちに、たとえそれが現前する悲しみであっても、悲しみそれ自体が古びていくことは不可避だからだ。形骸化された「悲しい」という単語だけが残り、いつしか肝心の中身を忘れてしまうことだって、否定できないからだ。

だから、せめて悲しみの理由を、悲しいと感じるに至った私たちの道程をできるだけ濃やかに描出できないだろうか。

世界が突き付ける事実を許諾できなくとも、前進と認識できるくらいの歩幅で進むことが難しくとも、こんな中途半端な座標に点を据えることが私には必要なのだろう。だから私がすべきなのは、悲しみを力ずくで受容することではなく、悲しみについて腰を据えて考え続けることだ。思いつめるのはたしかに精神的に不健全ではあるが、考えるのをやめることが私たちの心を救済するとは到底思えないからだ。

つらさと悲しみだけが残って、それでもなお、それらの感情と向き合い、自分なりの着地点を見つけることで救われる感情だってあるはずだ。だから私は考え続けて、この感情を己の中にできる限り留めたい。感情の機微が重なることで織りなされるのは、きっと色彩豊かな地獄に違いないから。

心に響いたサヨナラの数に応じて私の地獄が一層鮮やかになるのだとしたら、流した涙も極彩色の地獄に照らし出される日がいつしかやってくるのではないだろうか。

サヨナラだけの人生というのは、つまりサヨナラできるだけの出会いがあったということだ。だからこそサヨナラだけの人生を呪うのではなく、サヨナラできるだけの出会いがあった人生として祝福することはできないだろうか。気休めで誤魔化そうにも、これが地獄であることに変わりはないけれど、甘言だってないよりはきっとマシだ。どうしようもない理屈をこねながらでいいから、極彩色の地獄をいつか飼い慣らせるようになるために、色々ある感情を詳らかにしようではないか。ほかでもなく、肯けない自分のために。

そういえば、あれから幾夜を越えた今になって、漸く腑に落ちたことがある。それは、悲しみが澱になって沈殿することについて。

鷲田先生が時折り表現されるその様を理解していたつもりでいたのに、身をもって体験するまでは存外肚落ちしていなかったらしい。全身をめぐる悲しみが消えることは、おそらくない。岩石みたいに大きな塊だった悲しみが月日とともに砕かれ、砂のようになって、いつしか澱のように粒が見えなくなっても、きっとこれは消えないで堆積し続ける。何かの拍子に揺さぶられては全身を漂泊し、あちこちに散乱しては当然のように翻弄され、やがて時間が経つことで、やっとの思いで大人しくなるのだろう。歳月を重ねることで全身をめぐる悲しみがサラサラと沈殿していく。

そしてまたきっと、そのたびに疼いては泣き声を上げるのだろう。だから、悲しみが私自身と溶け合うことはない。たとえそれが私のなかに取り込まれようとも、悲しみは悲しみのまま積もっていくのだろう。

私にはあなたの人生を180度変えられるような影響力はありませんでした。そうした衝撃を私が担うべきではなかったというのは自明でしょう。それでも、THE BACK HORNやamazarashiがいるからこそ私が現世を生き存えられているように、あなたにとっても、いついかなるときも救ってくれるようなメシアがいてくれたなら、そんな出会いがあったなら、ひょっとすると今日も呼吸をしていてくれるのではないかと思うのです。

なにかと横暴ではあるけれど、私は誰かにとって、世界とをつなげられるような紐帯になりたいと思いました。直接会うことはなくても、言葉で掬いの一端を担えるような存在になりたい、そんな、甘っちょろいことを、それでも心から思ったのです。

雑多なファミリーレストランで餃子やラーメンや瓶ビールをしばいた夜が我らの最後の晩餐になってしまいましたね。毎年、私の誕生日を欠かさずにさりげなくお祝いしてくれたことや、しみったれた居酒屋で何万マイルも管を巻いたこと、客観的に見ても多くの思い出があったわけではないかもしれないけれど、色々あったことを、まだ昨日のことのように思い出せます。あなたの肉声もできるだけ長い間、留まってくれるといいなあ。

立ち直れもしなければ、受け容れさえできないでいるけれど、それでも生きていくのだと、歯ァ食いしばって生きていくのだと。覚悟を胸に貫いて生く。知ってしまったからこそ持ちうる光を携えて、まだ明日もその明日も。