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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「虹の彼方へ」|頭上を走る鮮烈な七色

「虹の彼方」と聞いて思い出したのは、かつて幼い頃に、虹が始まる場所だとか、虹が終わる場所なんかを見つけたかったということ。

雨上がりにしか見ることができない得体のしれない色彩は、幼心を惹きつけるには十分すぎる引力を持っていた。今だって、時折見かける七色に胸を躍らせるのだから。そういえば、この曲を聴いてはじめて、「寂寞」という言葉の読み方と意味を知ったことを思い出す。

THE BACK HORNの曲から新しい言葉を覚えるということは、THE BACK HORNの曲が自分の構成要素のひとつになるということでもあるからうれしい。血肉になっていくすべてが、愛おしい。

ヒズミやキシミが掻き鳴らされる音の構造に、どことなく漂う殺伐とした雰囲気に、そこはかとないTHE BACK HORNらしさを感じる。「夏の終わり 突然降り出した雨の匂い 季節を変えた」*1と言うフレーズは、夏の名残惜しさを一掃する驟雨の勢いを彷彿とさせて、季節が連れ去られる寂寞を漂わせている。少しだけ冷気を孕んだ空気とペトリコールは、夏を消滅させるには十分な威力を持っているから、夏の終わりはいつも、どこか寂し気なんだ。

雨上がり、空に架かる虹は、たとえそれがどれだけ鮮やかな色を帯びていたのだとしても、透明感のある七色は幻想的で、儚げな印象を与える。

それに対してTHE BACK HORNが描出する虹は、油絵具で塗ったみたいな重厚な質感を持ち、まるでとぐろを巻いた蛇のように圧倒的な存在感を放っている。そこには儚さは同席しておらず、鮮烈な七色が頭の上を走っている。それは『人間プログラム』や『太陽の中の生活』や『情景泥棒』などのジャケットに描画されているような、強くて大胆な色彩を帯びた虹なのだ。

光の中で君が笑う
七色の夢 ああ描いて
岡峰光舟「虹の彼方へ」、2007年

七色で描き出される夢もきっと鮮やかで、きっと目を瞠るような美しさなのだろう。しかし、ここで表されている情景以上に、山田将司の歌声があまりにも甘美で、恍惚として聴き入ってしまうのは私だけではないはずだ。

勁くて、このうえなく美しい。声という繊細な楽器で詳らかにされる広大な感情に、いつもいつも、飽きることなく魅せられている。私はその艶麗さに陶酔したまま、醒めることはないのだろう。

喜びの歌を悲しみの胸に
灯し続け 走れ明日へ
同上

歌は「灯し続け」るものだという表現が好きだ。

明日に向かって走るためには、とかく灯りが必要なのだ。こんな時世でも、否、こんな時世だからこそ。とはいえ、悲しみを胸に抱くことは多々あっても、それにお誂え向きな「喜びの歌」とは一体何が考えられるのだろう。

「虹の彼方へ」は喜びの歌であろうか。THE BACK HORNの歌には、「喜びの歌」なるものがあるだろうか。少しだけ、思いを巡らせてみる。おそらく言えるのは、いわゆる明るくない歌であっても、「喜びの歌」になりえるのだと言うことだ。あらゆる場面でTHE BACK HORNの楽曲から元気をもらってきているものの、「喜びの歌」と言われて、即座にコレ!と結びつくものは、THE BACK HORNに限ったことではなく、おそらく私のなかに貯蔵がない。文字通り「歓喜の歌」くらいしか、表面上思い浮かばない。

そういうわけで、「悲しみの胸に」あてがうことができるような「喜びの歌」を見つけてみようではないか。先に進むには灯りがいるから、気長にかまえて。

*1:岡峰光舟「虹の彼方へ」、2007年