メメント

両手いっぱいの好きなものについて

体調をくずした話

熱を出すことは滅多にない。特にここ数年、発熱した記憶が一切ない。何らかの体調不良に見舞われることは多少あるのだが、外に出れないなんて事態になることは年に1度くらいである。

こんな具合で、ありがたいことに基本的にはいつも非常に健康なので、突如体調をくずしたとき、自分でも驚くほどに心細くなる。一人暮らしだとしても、家族とともに住んでいるとしても、体調が思わしくないと、私は精神的にいつもより弱るらしい。とはいえ、こういうのは大抵のひとが抱く感情なのだろうけれど。

朝、会社に休むと連絡し、病院へ向かった。家を出て5秒で得意先の人に遭遇し、先日のライブで買ったお気に入りのロンT(ボーカルに擬えたキャラクターが白目を剥いて叫んでいる絵がドーンと描かれている)に彼女の視線が向けられているのが見え、気まずくなった。とりあえず、やり過ごしたけれど。

病院へ向かう途中、通勤途中のサラリーマンたちとすれ違った。みんなスーツやらなんやら、ちゃんとした格好をしていた。私だって普段はそういう恰好でいるのに。そうした「ちゃんとしたひとたち」と、月曜日の朝から至極ラフな格好で、いつもより拍車がかかって青白い顔をしながら歩く自分との境界がヒリヒリと感じられた。別に、私は悪いことなど何もしていないのに、どこかきまりが悪く、居心地の悪さを感じたのだ。

他人の視線が気になる、それでも好きな服を着たい。拮抗する感情に折り合いをつけながら、最近はいろんな服を着ても、あまり苦しい気持ちにはならなくなった。だけど今日みたいにただでさえ少し心細いときに、自分だけ世界から浮いているように感じられたのが落ち着きなさの一因だったと合点がいくと、自分もどこかに属して安寧を得る人間という側面もあるのだな、と気づいた。

恥ずかしいことに、私はどこにも属さないというような部類に属するタイプの人間だと思っていたのだが、案外「フツー」の人間でもあることが分かると、不思議と心穏やかだった。こうした前向きな諦観というのは、身も心も軽くさせてくれるのかもしれない。アイデンティティーという言葉に執着して何者かで在り続けようとしなくとも、その人自身である限り、私たちは皆別個の存在である。わざわざ何者かでいようとしなくても、私は私であるのだと諦めを知ることも、今の私には必要なのかもしれない。

好きな服を着る、好きな恰好でいる、好きなものを身に着ける。本来それらは自分のためだけにする行為であって、誰のためでもない。好きなひとに寄せた恰好をすることを否定するわけではないし、それは健気で献身的な心遣いだと思う。しかし、私が私自身のために装飾することこそ、今の私にはもっとも優先されることなのであろう。他人の視線を気にしなくなることは、おそらくないだろう。だが、それに自由な解釈を施すのはあくまでも自分自身だ。そうした恣意的な言い訳から自分に制限を課してしまうのは、自分の首を絞める行為でしかない。

仕事に行くとき、ライブへ行くとき、お出かけするときなどのさまざまな場面で纏う衣服や施す化粧のことを、私は武装だと思っている。この世界と私とのバランスを保つにはどうしても、武装する必要がある。とすれば今日は、武装解除の状態で外に出てしまったがゆえにほかの弱さも露呈したのかもしれない。常に一定の強さでいる世界を前にして、弱っている私だからこそ見えるものがあるのだとしたら、それに気づくことのできるだけの心のあそびを常に持ち合わせていたい。