メメント

両手いっぱいの好きなものについて

amazarashi Live Tour 2019「未来になれなかった全ての夜に」@新潟

道すがら何があった?その答えこそ今の僕で
秋田ひろむ「命にふさわしい」、2017年

幾つもの選択肢のなかから選ぶことができるのは、大抵1つだけだった。1つを選んでは、他を切り捨て、そうやって選ばれたものたちが積み重なることで、今の私は形作られている。振り返れば数多の岐路。誰しも各々が下した判断を「正しい」ものだと願っているのではないだろうか。安堵や悔恨、選択の末にはきっと、どうしたって釈然としない気持ちがついて回ることだってある。

でも、そうした感情に折り合いをつけるだとか、翻訳することができるのは、自分自身だけなのだと思う。時にはカレーしかないときだってあるのだろうけど(もののたとえです)、どうとだってできる道がほかにもあるのなら、そうした選択を自分にとって「正しい」ものにしていく心持ちが必要なのだろう。

いくらどん底にいたとしても起死回生の一撃を加えることができるのは、きっと希望を失わなかった者なのだ。道すがら下してきたもろもろの決断が私を形作るのであれば、私に選ばれることがなかった、「未来になれなかった全ての夜」が存在していることもたしかなのだ。ここで主張したいのは、そうした夜を言葉という形でもって想起し、供養しようと試みたのが、秋田ひろむその人だということだ。

このツアーの2か所目を迎えたのは、第2の故郷新潟だ。中心部から離れたところにスッと佇むホールに、安堵の息をもらした。地方都市に住む者にとって、好きなアーティストが地元に来てくれる喜びは、ひとしおである。住み慣れた街、私が知っているあの街のどこかに、彼らが足跡を残してくれたのだと思うと、胸が躍る。

おそらく多くのファンがそう感じるのだろう。そうした大好きな街で目の当たりにした圧巻のステージ、胸の奥を掴んで離さない光、そして暴力的なやさしさは、夜を越えるには十分すぎる灯だった。

好きなバンドは数多くあるのだが、とりわけamazarashiについては、おなじみ(?)THE BACK HORNとも異なる思い入れがある。「言葉」という切実な問題に肉薄する秋田ひろむが紡ぎ出す言葉とともに心の奥底へ沈み、いつしか来る浮上を以って生還を繰り返すリスナーは私だけではないはずだ。涙と浄化、過去の自分との心中、そして生還。それが私にとってのamazarashiだ。

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と言ったのはヴィトゲンシュタインだが、持ち合わせる言葉によって、言葉は私の世界を造り、そして積み重なった言葉の数々によって人間は形作られていくのだろう。だとすれば、私たちは言葉を放棄してはならない。言葉を放棄するということは、私の世界をかなぐり捨てることだからである。

そもそも言わずして伝わる想いなど、おそらく思っている以上に少ないのだと思う。言わなかったことを後悔するくらいなら、エゴイスト丸出しなのを承知で、どれだけみっともなくても言葉にしたい、というのが私の芯をなす考え方の1つである。

しかしそうは言っても、心を遣う言葉だからこそ、伝える相手を選ぶ権利だって、私たちは持ち合わせている。だから自分に向けても言いたいのは、言葉にしないと自ら決めたことで、未来になることがなかった夜のことを、後悔の念とともに反芻しないでほしい、ということだ。

私たちが岐路に立たされたとき、痛みを伴う選択は思っている以上に多い。こうした場面に遭遇するたびに、いつだって辟易する。そうは言っても、どうとだってなる選択肢を「正解」にできるのは、私自身にほかならないのだ。今はそれが強がりだったとしても、そうした強がりが強がりだということをいつかは忘れてしまうほどに、かつて選んだ道は、さも当然のように「正しい」という顔つきをしてしまうのだろう。

言葉にならなかった感情、どこかにしまい込んで忘れられた言葉、何を言ったところで伝うことはないのだろう、と勝手に諦めた心の中。そうした気持ちを言葉にして伝えることで、未来になった夜がある可能性は否定できない。そうした夜たちと向き合えるようになるには―――必ずしも向き合う必要があるわけではないが―――まだまだ時間を要すにちがいない。

いつしか「大丈夫だ」と軽い足取りになれたとき、言葉を用いて喪った未来について「語る」ことによって、私たちはほかでもない自分自身と折り合いをつけられるのかもしれない。私たちはだれしも、潰えた希望を編みなおせるほどに立て直しを図れるのだ。