メメント

両手いっぱいの好きなものについて

金色に散りばめられた悲しみについて

「黒地に花が舞ったようなイメージ」だと、彼はそう言った。

振り返れば遥か遠く。汗ばむ陽気に、グレーのジャケットを纏って初夏。現実に起こったことであったのか、ひどく現実味が薄くて、訝しいくらいに遠い遠い昔。そうした記憶が奥深くに沈潜しては浮かび上がって呼吸し、私はその脈動を感じるのだった。

希望があるほど目の前が拓けているわけでは決してない。でも、だからといって絶望が手を差し伸べているわけでもない、そんなギリギリの境界を千鳥足で辿ってきたように思う。あの日から随分遠ざかったが、それは時間の経過を意味するだけではない。私自身、あの日の自分から遥かに離れたところまで進んでしまったように思う。変わるのはいつだって自分自身で、他人は驚くほどに、ちっとも変わりやしない。正しく言うならば、私が他人を変えることはまったくできない。

過ぎ行く日々のなかで、「私は大丈夫なのだろうか」と幾度となく繰り返した。それでも積み重なった日々や以前の自分に想いを馳せては、確実なる変化をひしひしと感じる。季節を飛び越えながら、揺り戻しを何度も経験してきた。そのたびに「大丈夫」になる自分を携えて。そう易々と、大丈夫になんて、なれっこないのだ。それでも、大丈夫と言うほかなかった、強がりで不器用な自分が愛おしいと思えるまで歩を進めてきたように思う。

こうした自分になるまで、私から離れずについてきてくれたのは、ほかでもない、私自身である。しかしながら私は、長らく自分のことが大嫌いで、そんな自分を幾度と裏切り、傷つけ、それでも愛していた。マイナス地点からの出発はいつだって厳しい。未だに隙あらば足を引っ張る私自身が潜んでいることもたしかなのだ。

こんなふうに低空飛行であっても、かろうじて前進できているのは、歳を重ねたことも一因なのだろう。良くも悪くも割り切りが上手になったと感じる。たとえ割り切れずにあまりが出てしまっても、極力抵抗せず、ありのままを受容する。そうした心がけで、随分と楽になれたし、自分のことも「そんなに悪くない」と受け入れることができつつある。私がこのまま、私自身を味方につけることに成功したなら、これ以上に心強いことはないのだろう。

起伏の多い道にいることはたしかだが、それでも私は進むのだろう。悲しい記憶も、あらゆる劣等感や自己嫌悪も携えて。たとえ明るい場所に辿り着いたからと言って、私の過去が霧散するわけではない。煌びやかで温かい思い出はもちろんのこと、凝り固まった苦い記憶たちが地層のように積み重なり、様々な色を蓄えて、私を形成していることを忘れてはならない。あとは大丈夫になるだけのこと。それもきっと、近々実現するのだろう。 

黒に咲いた桃色の花が眩しい。手放す時が来るまで、すべてこの手のなかに。自身に誓うのは、いつも、笑顔でいること。