メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN 「ジョーカー」|軌跡を肯定する光と影

わー、「ジョーカー」ですよ、「ジョーカー」。

ライブでのパフォーマンスがとにもかくにも際立つ「ジョーカー」。これを歌い切る生命力に毎回圧倒され、その底なしのエネルギーはどこから沸き上がるのかと不思議に思う。

「ジョーカー」を聴くたびに、悲痛な叫び声が胸に刺さって取れないまま、トラウマさながらの痕跡が身体に刻まれていくのを感じている。一聴したばかりの頃感じたのは「とんでもなく暗いな!こりゃ!」という身も蓋もない感想だったと思う。我ながらひどい。今となっては馴染みがある曲だけれど、当時の私にとって「ジョーカー」はあまりにも異色だった。

だから新しい世界の扉が開かれたと同時に、私はみるみるうちにのめり込んでいった。屈折した思春期に「ジョーカー」は純度の高い劇薬にほかならない。一貫してとにかく重たくて、痛みと烈しさを湛える「ジョーカー」。鬱々とした歌詞と激しい旋律は、聴き手を惹きつけて離さない。この身を切り裂くような衝迫によって描き出されたこの歌を、いったい私はどこまで紐解くことができるだろうか。

ライブで披露されると大盛り上がり必至の「ジョーカー」。でも、盛り上がりのなかに潜む紛うことなき痛みは、そもそもどこから察知されるのだろうか。端的に喉が張り裂けそうなくらいの叫び声とか、目を背けたくなるような歌詞とか、痛みを感じる条件は揃っているけれど、いわゆる「鬱曲」と言われるにとどまらない威力が「ジョーカー」には宿っており、その魅力に釘付けされる。その威力とはいったい何であろうか。

管見するに、そのもとになっているのは命だろう。いや待ちたまえ。ここ最近の記事で、君は一体「命」という単語を何回使っているんだ。しつこすぎないか。いや、でも仕方ないだろう。「命」に触れずしてTHE BACK HORNについて語ることは到底不可能にちがいないのだから。というわけで、ここで感じた「命」について、彼らのライブに触れながら説明してみたい。

THE BACK HORNのライブを見るたびに思うのは、彼らの歌が己の一部を切り分けることによって届けられているということだ。己の一部というのは、もっと言えば命、あるいは魂とも呼べるかもしれない。

たしかに命なるものをこの目で直接見ることはできない。しかし私は、彼らが音を鳴らすさまを目撃するたびに並々ならぬ威力に喰い破られそうになっては、命の存在を強烈に思い知らされている。だからこそ私は、彼らが奏でる歌を、途轍もなく稀有なエネルギーが捻出された結晶であると感じている。この力こそが畢竟命であると、私は言いたいのかもしれない。

なかでも、とくに「ジョーカー」はその毛色が強い。渾身の力を込めた叫び声が尋常でない気迫に満ちていることからも、そのさまはうかがえるだろう。傷つきやすい心と実際に傷ついてきた自分自身とを引っ提げて紡がれる歌は、痛々しくも美しく、独特の魅力を携えている。

繰り返しになるが、「ジョーカー」という曲はただ暗いだけではない。この歌のなかでは、うまくいかない歯がゆさと、なんとか生きたい本音が綯い交ぜになっているように感じる。汲々と鬩ぎ合う心に触れた気がするから、ヒリヒリした感覚を覚えるのかもしれない。

生が影なのか、はたまた死が影なのか断定はできないけれど、光を当てたらたしかに影ができるように、表裏一体の関係を「ジョーカー」は彷彿とさせる。さながら、この曲に特有な閉塞感と痛みに首根っこを掴まれたような気分がする。

居場所なんて何処にも無い。
もう笑うしかないけれど、
笑う才能が無いから、
顔が醜く歪むだけ。
THE BACK HORN「ジョーカー」、2003年

歌詞を打ち込むだけでも、気が滅入るような鬱屈が漂っている。山田将司の鬼気迫る叫び声も切実な痛みを帯びていて、この身を貫く衝撃に切り裂かれそうな思いを禁じ得ない。これは「ジョーカー」に限られたことではないけれど、THE BACK HORNの楽曲が時を越えても、いつまでも鮮やかなままであることに私は唖然としている。

珠玉の名曲は、尊さを湛えたまま年季が入っていくようだ。それと同時に痛みや切実さも、その鮮烈さが保たれたまま年を重ねている点も心が惹かれる所以であろう。

憶測に過ぎないことではあるのだが、なんとなく私が感じていることについて話してみたい。「ジョーカー」では、鬱々とする情緒の渦中にあって、溺れそうなほどの息苦しさが体現されている。ただ、最近になって個人的に思うのは、「ジョーカー」を歌うということは、当時の想いを甦らせる営みであると言うよりも、むしろその苦しみを忘れないために、無かったことにしないために紡がれる心の叫びである、ということだ。

どれだけつらいことも、喜ばしいことも、生きていくかぎり更新され続ける。これは端的に言えば、記憶が薄れていく、ということでもある。それでも、記憶に沈んだ思い出をしきりに反芻することができれば、きっとそれは喪われることのない思い出として刻まれることにもなろう。ここで思い出されるのは、『無常という事』のなかで語られる小林秀雄の言葉である。

思い出が、ぼくらを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。(……)上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(ぼくにはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。
小林秀雄『無常という事』、角川書店、1954年

過去の痛みに触れるということは、自分たちの一部を受容することであり、肯定することである。これはつまり、痛みの更新とも言えるかもしれない。ここ数年間で「ジョーカー」を目の当たりにするたびに、私は繰り返しこんな思いを巡らせては、「ジョーカー」で織り成される軌跡の肯定ともとれる営みに、改めて胸を貫かれる気持ちでいる。

実際にその真意は計り知れずとも、彼らが暴れるさまから痛みの肯定をおぼろげに感じ、底知れぬ喜びが溢れだすことは、たしかなことである。

そしてこの轟音を掻っ攫う静寂は、大団円を待ち構える「未来」が奏でる透明な心。それは、混沌と苦悩が手を取り合って生成される闇を浄化するような純真とときめきでもあろう。白い白い雪が、サラサラと積もる情景が思い出されます。

次が、いよいよこのアルバムの最後の一曲。『イキルサイノウ』の終局を飾る息吹に、改めて触れてみよう。