メメント

両手いっぱいの好きなものについて

手放せるそのときまで

1月6日。豊川稲荷別院へ足を運んだ。年明け早々、ご縁を断ち切ろうと、目論んで。

思った以上に大きな神社で、大本命の叶稲荷をなかなか見つけられず、友人と彷徨いながら、ようやく辿り着けたのだった。

境内は参拝客で賑わっていたのに、叶稲荷の周りには誰もいなかったので、心おきなくお参りできました、と言いたいところだが、そわそわしちゃって3秒で済ませてしまったので、また機会を見計らって赴きたい。

 ご縁は、うまい具合に巡り合って手の中へ落ちてくる。さながら舞う桜の花びらのように、重なり、吹き飛ばされ、或る場所へ落ち着いていく。それは川の水面、環状道路の脇、アパートの窓のサッシ。そうやってまた、どこかへ流れ、運ばれていくのだろう。

どうしても縁を切りたい人がいるというわけではなかった。ただ、切れるなら切れてしまえ、繋がるご縁があるならば、いずれまた唐突に始まってしまうのだから、という思いをここ数か月間放牧している。そうやってささやかに強がっていないと、先に進めないかのように、やせ我慢をするのが常になってしまった。とはいえ、そんな自分も悪くないなと思えるくらいには、自分を肯定できるようになったと思えば、遥かなる前進を肌で感じている。

だから、ほんの少しだけ心から試してみたくなった。否応なしに、引き合ってしまった僕らが、当然のように離れてしまうのか否かを、確かめたかったのだ。たとえ切れてしまったのだとしても、それまでのことだったと、腑に落とすことができるにちがいない。私は、この地点に到るまでの道筋を、照射することだってできる。しかしながら、こうして強がる反面耳打ちしたいのは、もし、さらなる交差点が僕らを待ち構えるのな

らば、その先にある景色を見てみたくもある、ということだ。

 豊川稲荷別院で引いたおみくじは、ほどほどに好いであろう「吉」だった。その最後に記されていたのは、「いままではけわしき山路こゆるともすえは花さく野辺にいづらん」ということ。この日結んだ紙片のように、古きご縁も、新たなご縁も、知らずのうちに一部が結ばれ、そのほかは解けて往くのだろう。それを哀しいとは、決して呼ぶまいと誓う。

いかなる人物やモノであれ、お別れをするときには、感謝の気持ちを添えることにしたい、これは今年やりたいことのうちの一つだ。邂逅と別離を携えて、私はここより遥か遠くへ往く。

避けようとしても、出会ってしまった僕らの、物語の続きについて。

花が広がる地平を、心待ちにしている。