メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「雨」|世界に色彩が与えられる瞬間について

ライブで聴くことができると、その前奏の佇まいにさめざめとして思わず声をあげそうになる。ライブで聴けたときは意表を突かれてあんぐりを口を開けて立ち尽くしてしまった。ただ、うれしかった。静と動が手を取り合って絶妙な均衡を保つ「雨」。この曲に奪われてきた心は数知れない。

静謐な前奏は水が滔々と流れていくような音がする。聴いていてとても心地いいけれど、どこか寂しげで、どこか悲しげな旋律にも感じられる音のなかに吸い込まれていくのは不可抗力である。水が静かに滴るようにぽつりぽつりと紡がれる言葉たちはとても繊細で、どこか神秘的で、ただ恍惚としてしまう。

「雨」には呼吸の現われでもある白い息とともに言葉が語り出されていくような息吹を感じる。それに、どこか凛然とした空気を纏っているところも色気があって好い。この曲はどこか冷たい空気を帯びながらも悠然としていて、全体を満たしていくようにその場を包み込む威力がある。

この様子とは対照的に、サビでギシギシと掻き鳴らされるギターはまるで泣き声みたいに反響し続けていて鬼気迫る。そのさまはどこか感傷的で、胸の奥がチクリと痛むのである。

もしも全て脳が映し出すノイズなら
子供のころ見た冬の夜空描くのさ
THE BACK HORN「雨」、2001年

なんとも悲しく、美しい叙述だろう。もしかすると、とめどなく流れる涙のように降り止まない雨はそれ自体がノイズなのだろうか。たしかに冬の夜空はたくさんの星たちでにぎやかだから、「脳が映し出す」悲しいノイズを打ち消すことができるかもしれない。

たしかに思い出をよすがとして生きることはときには必要なことでもあるだろう。これ以上進んだらマズいと思うときに自分を引き戻してくれる存在が思い出だとしたら、それはこれから先もなくてはならない存在であるにちがいない。ただ、思い出が思い出であるということを忘れるべきではないとも同時に思う。

というのも、生き続ける限り否応なしに連綿と続くのは、過酷なことではあるが今このときだからである。だから過去に没入しきるのではなく、時折思い出すことができるよすがとして胸の内に秘めておくくらいの距離感を保ちながら関わりたいと、私は思う。「雨」とは関係なしに、ふと思ったことである。

さて、このあとに続く間奏の雄大な音のなかに身体を預けるようにして声の行方を辿る。やさしい咆哮に包まれながら心はたゆたい、嚠喨とした音色に沈んでいく快感に浸る至福。この音のたなびきに融けてしまいたいと思うほどに心地が好い。どうすれば音のなかを泳ぐことはできるのだろうか。

少し名残惜しく思いながらも、次の瞬間、今か今かと待ち構えた轟音が波のように押し寄せてくる。この瓦解とともに穏やかな音色たちは打ち消されていき、うってかわって熱情が台頭する。まるで水に溶け込んでいくように、サラサラと滔々と。それでも胸を掴んで離さない熱に囚われていく。

中盤までの色をモノクロだとするならば、終盤にかけて鮮やかに色づいていくように世界が開いていくような印象を受ける。それは降り止まなかった雨がようやく止んで、雲間から星が見えるまで澄んだ空が顔を出すような目覚ましさをも連想させる。

まるで世界に色彩が与えられるような瞬間とでも言えるだろうか。まるで花が開いていくような鮮やかさを灯しながらも、そこに走る痛々しさは色彩と同等に鮮烈である。開花の一部始終を目の当たりにするような尊さ、そしてこれほどまでに胸に迫り続ける切実な思い。これは一体何なのだろう。

数えきれぬ星が流れて 失くしたもの見つけたよ
息をきらす 坂の途中で 見上げていた空
数えきれぬ星が流れて 少しだけの優しさを
握りしめたポケットの中 最期に見た夢
同上

自分のルーツや追憶を辿ることで思い出されるものや、ようやっと合点がいくことがある。忘れていたものを取り戻すような手ごたえを感じたりすることもある。ふと思ったのは、「数えきれぬ星」を目撃して呼び起こされたのは「子供のころ見た冬の夜空」を見たときの心だったのかもしれない、ということである。

追憶のなかにそっと閉じ込めていたのは、無防備な心だったのかもしれない。ただでさえ心は脆弱だから、ひとは無意識のうちに分厚く武装してしまうきらいがある。これを繰り返すうちに心は鈍感になったり、そもそも武装していることを忘れたり、本来の姿をどこかに隠したまま所在が分からなくなったりもする。が、戦闘モードが続くと忘れてしまいがちな繊細な心に目を向ける余裕があれば、もしかすると失くしたものの存在にふとした瞬間に気付けるのかもしれない。

私が置き去りにしたものは何だろう。おそらく追懐のなかに取り残された心があるはずで、どこかにきっと隠れてるような気がするのだ。ただ、私はまだそれを見つけられずにいる。どれだけ辿れども、まだ、見えないのである。釈然としないけれど、ふてくされずに根気よく遡るしかないのかもしれないな。焦ると狭量になるから、気を付けたいよね。

ああ、この曲が終わってしまうことが、なんだかひどく名残惜しいと思う。静けさを湛えながら収束する音色、たゆたう魂、揺曳する音、すべてがとても愛おしい。規則正しいリズムを刻み続けるドラムが遠ざかりながら、しずくが滴るような音が最後まで存在感を放ちながら響く。それはまるで鍵盤のうえをバネが跳ねるような音にも聞こえる。

反響音がやけに名残惜しそうに聞こえるのは私の心が反映されているだけかもしれないけれど、すべてが静寂に包まれていく様子が神秘的である。この余韻を聴き洩らさないように私は耳をそばだてる。最後の余韻までもが途轍もなく愛おしい。

こうした静寂に意識を傾けている状態で次に耳にする「空、星、海の夜」はこのうえなく破壊的な威力を湛えていて、言葉にならない感情が決壊するのをギリギリのところで堪えるほかない。この曲を何度も何度も聴いてきたはずなのに、ふとしたときにハッとさせられてきた。今までは気付けなかったことにも何気ないタイミングで遭遇できることがあって、こうして失くしたものに光を当てるときが来るのかもしれない。