メメント

両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN「ひとり言」|宛先のあるひとり言

「ひとり言」と言うからには、取り留めもなく語られる何かを想像していた。が、このひとり言には「友達」という明確な宛先がある。しかもこれは、おそらく伝えきれなかった、あるいは、伝えられなかった言葉として残留している「ひとり言」である。

そんなふうにして取り残された想いについて語られるところが、THE BACK HORNらしくて、とても奥ゆかしい。

「ひとり言」が始まると、静寂に包まれながら一定の拍が刻まれていく。静けさのなか響く無機質な音を慈しむように耳がその音を追跡する。はじめは静寂に添うように滑り出し、徐々にその静寂を切り裂くように「ひとり言」は点火されるのだ。

前奏もさることながら、開口一番「アバラの隙間で風の音がする」*1と言うところとか、「粉々に砕け散る頭蓋骨の山」*2と表現されているところからも分かるように、地獄にでもいるのかと思わせるような殺伐とした様相が印象的である。

「ひとり言」を聴いていて思うのは、サビに入るまでエネルギーをジリジリと溜めていっているみたいだ、ということである。

有り体に言えば、必殺技のメーターが溜まるまでジリジリと次のターンを待ち構えている様子に似ている。「ひとり言」の場合はエネルギーというよりは、鬱屈を溜めに溜めたことで決壊する、と言った方がより正確かもしれない。

いずれにしても、この歌を聴いていると、切実な痛みと叫びを伴って横溢する想いを感じ取ることができる。言葉にならない叫びが放たれるところも、もどかしさや歯がゆさの証左のようで印象深い。

こういうわけで彼らの声、もとい歌は、私たちの心に一直線に届くのだろう。これは痛みも熱もすべて綯い交ぜになった凄まじい一撃だ。だからそれを目の当たりにしたものは衝撃に圧倒され、その情景と一体化していく感覚に陥る。痛切に語られる願い事に、胸の奥が掴まれる。

「友達よ心を一つに
僕のそばにいて 僕のそばにいて」
THE BACK HORN「ひとり言」、2000年

鍵括弧でくくられているということは、これが表題に掲げられた「ひとり言」の中身とみて間違いない。「友達」に対してこれを伝えなかった(伝えられなかった)ゆえに、「ひとり言」として描かれていることが推察される。

何かが憑依したかのように叫び狂う山田将司を彷彿とさせるのは、土砂降りの野音で見た情景が記憶に新しいからだろう。

今にもステージにぶっ倒れそうになるフロントマン3人が艶やかだったのはもちろんだけれど、煌々と光るステージがあまりにも眩しかった。

大粒の雨に当たるライトが散り散りに砕け散り、乱舞した光の粒が降りそそいできたあの情景。直視したいのに、思わず目を細めてしまうくらいに眩しくて、煌びやかだったことを今でもよく憶えている。

そういえば、「夕陽赤き雲 どす黒い線が 空に 空に垂れ込めてく」*3とあるから、「夕焼け目撃者」と掲げるライブで披露される歌として選ばれたのかもしれない。」あの日、夕焼けは見えなかったけれど、「どす黒い線が 空に 空に垂れ込めてく」さまを如実に表した結果が、すべてを流してしまうようなあの雷雨だったのだろう。

あのとき、どうしても「ひとり言」を聴きたいと思ったのは、私自身「そばにいて」と心の底から思った友達がいたからだ。

THE BACK HORNの言葉をそのまま借りるように、その言葉はこの曲と同様に「ひとり言」になった。「そばにいて」という言葉を繰り返し心のなかでなぞった。でも、私も、それを言うことはできなかった。

言い訳だけれど、距離が近くなればなるほど面映ゆい気持ちが大半を占めることが多くなって、大事なことは言いづらくなる。本当は、そういう人たちだからこそ、愛も感謝も本音もできるかぎり伝えられたらいいのだろうけれどね。

閑話休題

「ああ また夢か…」*4と朧気な様子が手に取るように分かる、この束の間の安穏が貴重である。この平穏を破るようにして、打ち寄せる大きな波さながらの轟音が場面を切り替えていく。またここで、揺さぶられる心に出会うのだ。「強く光が包み込む」*5の「強く」という部分には、文字通り強く握った拳が呼応せずにはいられない。

願い続ける言葉 天に昇ってく
「友達よ 心を一つに
僕のそばにいて 僕のそばにいて
何を語るのか 何も語るのか
心を開いて さらば悲しみよ
僕は一人じゃない
僕は一人じゃない
僕は一人じゃない
このままじゃいけない」
同上

「僕は一人じゃない」と言い聞かせるようにして頑なに繰り返すところは、とりわけ痛みを伴ってその存在感を主張してくる。切実さとか、迫真とかいう言葉は、やっぱりTHE BACK HORNの音楽を表すにはお誂え向きすぎると、思わずにはいられない。

繰り返す言葉で自身を説得できたかどうかはさておき、言いたくて、でも言えなくて、最終的に「ひとり言」として昇華された感情は果たして供養されたのだろうか。「さらば悲しみよ」と放った言葉どおり、悲しみは過ぎ去っていったのだろうか。

ともあれ、「願い続ける言葉 天に昇ってく」と語られているのだから、伝えられたかは明言されずとも、何らかの形でこの願いは成仏したのだと思いたいのが正直なところである。

黒々とうねる渦に飲まれていくように、「このままじゃいけない」という強い叫びとともに「ひとり言」は収束していく。まるで自分を責めるように、それでも、自分を奮い立たせるように。

*1:THE BACK HORN「ひとり言」、2000年

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:同上

THE BACK HORN「茜空」|無常を受け容れる覚悟

こんなにも暗澹たる「茜空」が存在していることに、私は感動のあまり身震いしている。これは一層強い賞賛を意味する主張であることをあらかじめ断っておきたい。

「茜空」という言葉を耳にするとき、私が真っ先に連想するのは、言葉のとおりに茜色に染まった空であり、そこに影は存在していないに等しい。

とはいえ「茜空」は、見るものを惹きつける強力な引力を持つ一方で、他方では夜の気配を感じさせる絶妙なあわいであることも事実である。

翳りを色濃く描出する隙間である「茜空」。「斜陽産業」という言葉があるように、たしかに陽が沈む描写は没落しつつあることの比喩でもありえるし、衰退になぞらえもする。

THE BACK HORNが描き出す「茜空」からは、夕焼けそのものの美しさよりも、盛者必衰の色を見て取ることができる。

ああ 何も無く

そして回る地に巡る

震えの耐える事無く

生き行く

THE BACK HORN「茜空」、2000年

古風な口調が特徴的な「茜空」。出だしから展開されるこの虚無。鬱蒼と生い茂る虚無。夕焼けが照らす光に呼応して伸びる影さながら、暗鬱が心を侵蝕していくようである。

その苦しさを表したものが、「震えの耐える事無く生き行く」*1という一節であるようにも思える。

何があるのか分からぬ

分かる事なく生きゆく

何があるのか分からぬ

分かる事なく生きゆく

同上

めくるめく受難の日々を耐え忍ぶように生きゆく描写が、つららになって胸を貫く。渾身の叫びとともに繰り返されるこの部分には、この遣る瀬無さが投射されているようにも見える。

ところで、「何があるのか分からぬ」日々を「分かる事なく生きゆく」姿というのは、翻って考えてみれば非常に不可解である。「何があるのか分からぬ」なかを生きているのだから、足取りが覚束ないとしても当然のことである。

たった一つ、誰もが最期に必ず死を迎えるということ以外のことは、私たちは何も知らない。私たちは、すべてが不確定のなかを生きさまよっていると言ってもいい。

そもそも死ぬこと以外定かでない状態というのは、随分と逆説的である。結末を知っていながらも、それでも私たちが生きゆくことができるのはなぜだろう。

「それでも」と思えるための動機はなんだろう。

「わからないからこそ、生きることができる」という主張もあるだろうし、「命があるからこそ」ということも言えれば「死にたくないから」という見方もあるだろう。そのどれもがそれぞれが持ちうる固有の解である。

連綿と続くように思われる人生にも終わりがある。が、それが途絶えたとき、意識の主体である本人の意識はもう「ここ」には存在していないのだから、ある意味では人生は、「この私にとってのみ」連綿と続くものだと言ってもいいのかもしれない。

たしかに「点」で見てしまえば人生はひどくむなしいものかもしれない。が、「線」で見たときに、それが単にむなしさの集積ではないと言いたいのは、横暴だろうか。「死は生に意味を与える無意味なのです」と鷲田先生が紹介されていた言葉が脳裏をよぎる。

ところで、無意味さの現われと言えば、次の部分がとても印象的である。

繰り返す全ては

水のごとく流れて 止むのに

同上

「茜空」のなかで繰り返し強調されるように、「繰り返すすべては水のごとく流れて止む」という表現で編まれる無常と諦観が、この曲の根幹を成しているとみて間違いない。

諸行無常を嘆くように、あるいは口惜しむように語られるこの部分からは、THE BACK HORNらしい諦観が色濃く表されている。この諦めの気持ちが結晶となって大団円を迎えたものの一つが、「枝」という楽曲ではないかと、思わずにはいられない。

「茜空」で簡潔に語られた言葉を押し広げるかのように、「枝」では切実な思いが礫になって降りそそいでくる。

少し長くなるが、その部分を以下に書き記そう。

繰り返してゆく中で何が生まれるのだろう

過ぎてゆく時の中で何を残せるのだろう

あなたと過ごした日々も繋いだ手の温もりも

ここに居ることさえも ここに居たことさえも

忘れてゆくのに

全てを忘れてしまうのに

松田晋二「枝」、2007年

「枝」でも片鱗をうかがわせる諦観の念が行きつく先にあるのは、全てを忘れてしまうという無常である。が、「枝」で目覚ましいのは、「僕たちは笑う 生きてる悲しみを拭い去るように祝福するように」*2と無常を肯定する姿である。

これに対して「茜空」に特有なのは、一言で言うと「諦観」だろうし、言い換えれば「無常に抗うことなく、無常(あるいは無情)を受け容れる覚悟」であるように思う。

言うまでもなく、『甦る陽』という作品には、混沌とした生命のエネルギーが宿っている。が、「茜空」にはそれが迸るほどあるようには思わない。むしろ、諦めの境地と言ってもいいほどに諦観が漂っている、とさえ思う。

それは何に対してだろう。おそらくは、連綿と続く人生に対してだろう。

とはいえ、この曲は決して捨て鉢にもなっていなければ、投げやりにもなっていない。そうではなくて、「茜空」には無常を受け容れる覚悟がどっしりと据えられているのだ。だから、この曲が躍動的ではなくても、スッとした芯の強さを感じさせもするし、ブレない逞しさがある。

「茜空」で描かれているように、生きていれば、ときに「震えの耐える事」がないほどの苦しみや悲しみを味わうこともある。生きていく限り生活のなかに内包されるのは、喜びも悲しみも必至で、それらが折り重なってそれぞれの人生が編まれていく。

夜を迎える黄昏時、「よろけもたれ我あり」*3と想いながら「繰り返す全ては 水のごとく流れて 止むのに」という無常に沈潜する。が、定かなのは、そうしたなかを「生き行く」という覚悟である。宵の明星さながら、眩い光が一閃する。

*1:THE BACK HORN「茜空」、2000年

*2:松田晋二「枝」、2007年

*3:THE BACK HORN「茜空」、2000年

THE BACK HORN「甦る陽」|情緒をそっと撫でる歌

このアルバムと同じ名前を持つ「甦る陽」。この曲は、肩の力が抜けるように、やさしくて朗らかな前奏が印象的である。「甦る陽」を聴いていると、とても穏やかな気持ちに包まれる。飾ることなくこの曲に浸ることができるし、思わず口ずさみたくなるし、音楽に合わせて身体が拍を取り出しもする。

THE BACK HORNにしては珍しく、というと語弊があるかもしれないが、「甦る陽」は、まるごと穏やかな曲だ。爽やかな夏の風が頬を掠めるように、情緒をそっと撫でてくれる。この凪の時間がとても愛おしい。

THE BACK HORNの楽曲はことごとく情緒を揺さぶってくるので、ほっと息をつける歌というのはある意味で貴重に感じる。

もちろん情緒を搔き乱されるというのも彼らの音楽を聴く醍醐味ではあるけれど、ふかふかの毛布に包まれるように穏やかな気持ちになれる曲を聴くことだって、至極の贅沢であるように思うのだ。

「甦る陽」には、夏の面影が色濃く表われているわけではない。事実、歌詞のなかで夏を明言する言葉は「静かな夏の日」という一節のみである。が、この一言があるからこそ生まれる新たな奥行きがあるような気がしている。

個人的な嗜好が含まれている可能性もあるけれど、実感しているのは、季節が付け加えられることで深まっていくイメージや、立ち現れる思い出はきっとある、ということである。

なぜならば、生きているかぎりは、めぐる季節に必ず出会うからだ。

たしかに去年と同じ夏は存在しないし、20年前と同じ冬ももうやってこない。それでも、同じ季節がやってくることで思い出される風景や強調される出来事は、記憶の片隅にきっと存在していると思えてならない。

数珠つなぎになって連想される思い出のなかに、きっと季節という概念も組み込まれているのだろう。

あれは「静かな夏の日」どころか盛大な夏のお祭り状態の熱狂天国だったけれど、「甦る陽」を聴いた夏をとても懐かしく思う。こんなふうにして、記憶と季節がセットになることは個人的にはままあることである。

話を元に戻そう。

悲しい歌を届けている人が

死んでいた日曜の教会 静かな夏の日

THE BACK HORN「甦る陽」、2000年

「悲しい歌」という表現が、とてもTHE BACK HORNらしい。たとえそれがどれだけ明るく楽し気な歌であっても、彼らが奏でる楽曲の原点には、きっと「悲しみ」がある。

悲しみを拒絶し、悲しみと同席し、悲しみを受け容れ、悲しみを越えるなど、「悲しみ」と取っ組み合いをしながら関係していくことで、ままならないことはもちろんあるとしても、この感情を飼いならすことができるようになっていく。

悲しみを肯定する姿は、THE BACK HORNの楽曲のあちこちに散りばめられている。それらを慈しむよう悲しみに寄り添うことができればと、自分自身も切実に思う。まずは拒絶が先だと、苦笑いをしながらも。

世界の終わりを見に行きたいな

風に願いを絡ませて

世界の終わりを見に行こう

同上

ここで願いを絡ませているのは、夏の風だろうか。概念上の夏は、なぜこれほどまでに美しいのだろう。昨今の夏は酷暑がすぎるので、爽やかな風がコンクリートジャングルに棲息しているとは思えない。

が、「甦る陽」に出てくる風は、願いを託せるくらいには軽やかで、意気揚々としているのだ。だから、とても心地よく感じる。

軽快な気持ちのまま「ラララ」と一緒に歌うことができるとしたら、どれだけ幸せだろうか。

文字に起こすと少しばかりシュールだけれど、朗らかに微笑みを広げられる「ラララ」という言葉には、なにか特別な力が宿っているように思えてならない。

揺れる坂道 誰のことを思い出す?

枯れ果てて涙 懐かしき花 赤く燃ゆる

同上

「揺れる坂道」とあるから、きっとこれは陽炎でゆらめく坂道のことなのだろう。ここにも、そっと夏の面影が見て取れる。

「甦る陽」が具体的に何を指し、どのような現象を意味するのかは、この曲のなかでは明示されていない。が、この節がその一端を担っているように思う。

たとえば、「懐かしき花 赤く燃ゆる」という部分。

「赤く燃ゆる」「懐かしき花」とは太陽のことだろうか。

それとも、もしかすると、「懐かしき花」それ自体が太陽に、もっと言えば夕日に照らされることで、赤く燃えているように見えた情景の投影かもしれない。

それでは、「懐かしき花」とは何を指すのだろうか。

花と言えば桜が思い起こされるが、季節は夏だから、桜ではない夏の花である可能性が高い。やはりここは夏の花として人口に膾炙するヒマワリだろうか。

そういえば、『甦る陽』のジャケットに描かれているのは十中八九太陽であろうが、ヒマワリに見えなくもない。

これは全部想像だが、陽炎で揺らめく坂道の途中、そこにはヒマワリが咲いていたのかもしれない。夏の風物詩でもあるヒマワリが。

舞い上がれ空 時の風が導くだろう

今は雨我を撃つ いつか又 花燃ゆる頃に

同上

「時の風が導くだろう」とあるように、明日は明日の風が吹くという言葉を思い浮かべながら、楽観的に生きてみるのもいいかもしれない。生きていると「今ここ」に自分を閉じ込めてしまいがちだからこそ、「今ここ」から視点を外し、少し先に意識的に目を向けることも肝要である。そうやって、肩の荷を少しでも下ろせるのなら上出来だ。

改めて、「花燃ゆる頃」を、陽に照らし出される頃、という意味に捉えなおしてみよう。

そうすると、たしかに今は雨に打たれている最中かもしれないが、陽の光に自身も照らされるのを心待ちにする希望が、ここには差し挟まれていると思えてくる。

「甦る陽」のなかで展開されているのは重い希望でもなければ、執着でもないところがいい。とても楽観的だから、身軽でポップである。だからこそ、気兼ねなく「ラララ」と口ずさみながら純粋に楽しめるのかもしれない。

ともすると「今ここ」に縛られてしまう。だからこそ、少しだけ先のことに目を向けてみよう。

突拍子もなく先のことでなくてもいい。たとえば、1時間後のことだっていい。打ち付ける雨が止むこととか、今のこの状態が終わることとか、何か気が晴れることを少しでもいいから思い浮かべてみよう。

すると「今ここ」に沈みかけていた自分の輪郭が、少しずつはっきりとしてくるにちがいないから。

THE BACK HORN「無限の荒野」|死場所を探す旅路

どの曲もTHE BACK HORNを代表する曲だと高らかに主張したい気持ちがある。このことを前置きがてら語るとしても、「無限の荒野」がTHE BACK HORNを代表する名曲の一つであることは間違いないだろう。

「サーカス」、「走る丘」、そして「新世界」という濃密で深遠なる世界を見てきたところで「リムジンドライブ」という極めてハイな曲を聴く。その勢いは留まることを知らず、間髪入れずに彗星のような煌めきと速度で展開されていく曲が始まる。

それこそが「無限の荒野」である。

音源で「無限の荒野」を聴くときもその勢いは凄まじく、生き生きとしながらその形相を輝かせている。しかし、この曲がライブで披露されると一層映えるのも事実なのだ。

ライブのとき、この曲はまるで生きているかのように躍動的に打ち出される。

新たな息が吹き込まれると同時に、「無限の荒野」はとてもにぎやかに勇ましく大地を踏み鳴らしていく。

私たちはこの速度に追いつこうと必死になる。

これは、眼前に広がる情景に一心にのめり込み、「無限の荒野」という享楽を喰らう瞬間である。

「無限の荒野」は「漢」と書いて「おとこ」と読ませるような雄々しさと猛々しさの塊であり、このうえなく勇ましい。

それなのに、この曲をやけにキラキラしていると思うのは、20周年の武道館でこの曲を聴いたときの情景を思い出すからかもしれない。

あのとき、キラキラのテープが空から降ってきた。アンコールの最後でもあった「無限の荒野」。言い換えればこの曲は、21年以降の彼らの「これから先」を新たに刻み始める最初の一歩でもあった。

あの場で噛み締めた「『否、まだだ、ここでは死ねない』」*1という思いは、THE BACK HORNにとっても、あの場に同席した観客にとっても、字面が示したとおりの堅固な意思だったにちがいない。

さらに言えばこの言葉は、20年という時間を貫いて彼らが持ち続けてきた主張であって、この先を照らすたしかな灯台でもあるのだろう。

燦然と輝く言葉が、ここには存在している。

THE BACK HORNは様々な楽曲のなかで枚挙に暇がないほどに名言を叩き出す。「無限の荒野」はその最たる例で、刺さる言葉が畳み掛けられるように続いていく。

「屍踏み散らして 尚も又斬る」*2という口上から火蓋を切る「無限の荒野」。

この始まり方からも分かるように、この歌の主題に据えられているのは、命であり、生きるという戦場のことである。が、印象的なのは、重くのしかかる主題とは対照的に「無限の荒野」という曲はとても軽やかで、彗星のように颯爽としていて清々しい、ということである。

魂が乾いてゆく 血は乾かぬのに

THE BACK HORN「無限の荒野」、2001年

言葉の綾であることをわかっているうえで、こうしたことを日常生活のなかで感じることがある。斬られて血まみれになる状況に陥ることは、そうあることではない。が、この「魂が乾いてゆく」という感覚がやけに生々しく伝わってくるのはなぜだろうか。

考えてみれば「魂が乾いてゆく」という表現は非常に言い得て妙である。このことによる不快感や違和感は、自分という一つの軸が揺らぐときに意外と実感しやすい。

たとえば「自分」を抑圧するとき。「こうするべきだ」という枠組みに自分を無理やり押し込もうとするとき。なれもしない何か・誰かになりたいと渇望するとき。

畢竟私の場合は、自分の意に反して自分を何らかの鋳型に流し込もうと試みるとき、たしかに「魂が乾いてゆく」のを感じる。これがどれだけ些細なことであっても、その積み重ねによって生命が徐々に侵蝕されていくことは否めない。

「否、まだだ、ここでは死ねない」

同上

「無限の荒野」は、生命をこれほどまでに勁く打ち立て、生命を主張し、生きることをまっすぐに肯定する歌である。

櫛風沐雨のような生活に涙を流すことはあれど、そんなところが己の死に場所であるはずはない。これは断言できることである。

たとえばTHE BACK HORNのライブを目撃したとき、その多幸感のあまり「ああ、もう死んでしまってもいいかもな」という思いが脳裏をよぎることはあれど、その思いはあっけなく払拭される。憚らずに言うと、幸せな瞬間を過ごすと、それ以上の幸せを求めてしまうくらいには際限なく強欲で現金である。

しかし、そのどれもが生きているからこそ味わえる感覚であり、渇望できることでもある。

彼らのライブを観たことで、まだ、こんなにも素晴らしい風景を見ることができると思えば―――あるいはまだ生きていたいと思えるならば―――、生命を愛おしく、名残惜しく思う機会としてこれ以上にお誂え向きなものはない。

強欲ついでに言えば、幸せな瞬間に死んでしまいたい、という気持ちを否定することはきっとできないだろう。それでも、現金ゆえに、また会うために生きよう、明日もまた生きよう、そんなことを繰り返し思いながら過ごすことで、気付けば明日は「また会う日」につながっていくように思うのだ。

「無限の荒野」の高らかな主張は次の節でも一層声高に強調される。そう。あの力強い魂の宣言である。

我 生きる故 我在り

同上

この想いに託されているのは、紛れもなく生きるために生きるということであろう。たしかに「生きるために生きる」というのは単に同じことの繰り返しであって、一見すると何の意味も示さないように思える。が、この原初的な「生きる」ということが腑に落ちることで、ようやく肯定できる生があるように思えてならないのだ。

ややもすると、何か有益なことをしなければならない、と駆り立てられる日々のなかで、有益であろうとしない姿勢に身体のこわばりが和らぐことは多々ある。「生きるために生きる」という主張が無益とはまったく思わない。が、同語反復的な言葉だからこそ、冷え切った心を温めてくれもするし、「それだけでいいのか」と肩の荷が下りることもあるだろう。

そういう意味で考えれば、「我 生きる故 我在り」とは、生きていくことを肯定する端緒でもあるにちがいない。

青く光る流星が俺の空を這いずり

青く光る月だけが

俺の行方を知っていた

同上

行く手に広がるのは、牧歌的な景色とはあまりにも対照的な「無限の荒野」である。

それはひょっとすると行く手を阻むくらいに荒れ果てているかもしれないし、平坦な道など、続いていないかもしれない。が、未墾の地を踏みしめるとき、「青く光る流星」は他の誰でもない「俺の空」を這いずっていて賑やかに違いないことを、「無限の荒野」はいつでも教えてくれる。

つらいと思うのは自分の心の動きだから、その度合いなど気にかけることはない。つらさの底に穴があくほどの深い悲しみでなくたって、かまいやしない。今、このときにつらいと感じたことがすべてである。

その度合いがどうであれ、私たちは頑なに叫ぶべきなのだ。「否、まだだ、ここでは死ねない」と。そして何度も反芻するのだ。「我 生きる故に 我在り」ということを。

*1:THE BACK HORN「無限の荒野」、2001年

*2:同上

THE BACK HORN「リムジンドライブ」|ポップで乾いた祈り

「リムジンドライブ」は、はちゃめちゃ陽気にポップなのか、はたまたプラス側の極を突き抜けたがゆえの狂的エクストラハイなのか、にわかには判断がつかない楽しい曲である。見事に「脳みそ撒き散らして」*1いる感じが漂っている。やはり、この曲はどこまでも突き抜けた狂的エクストラハイなのかもしれない。

ノリノリになるって、昨今も使うワードなのか些か怪しいけれど、「リムジンドライブ」は本当に「ノリノリになる」という言葉が合う曲だと思う。

純粋に、ただ楽しい歌というのは、もしかするとTHE BACK HORNの楽曲のなかではレアかもしれない。

無論、彼らの歌が楽しくない、と言いたいのではない。彼らの歌にはいつもいつも飽きることなく情緒が狂わされるので、楽しさよりも揺れ動く情緒を感じがちなのである。

そう思うと、ただ楽しいということに没入し、笑顔になれるのは貴重に思えてくるのだ。

とはいえ、歌詞に目を向ければ結構ヘビーだから、純粋に楽しいと言ってしまうのは少し語弊があるかもしれない。が、この歌は「彼の死」という悲しみを支柱にしているにもかかわらず、その片鱗すらも見られないくらいにどこか小気味良い。

どこまでもさっぱりしていて、潔くて、悲しいはずなのにそれを「幻」なんて言ってしまうしなやかさが印象的な「リムジンドライブ」。この歌は、悲しみのない国には何も無いだろう、なんて強めに言い切ってしまうくらいにしたたかなのである。

これは、悲しみをエンターテインメントにしてしまう豪胆さ、とも言えるかもしれない。この曲を聴いていると純粋に楽しいと感じるのは事実で、ライブでも「ヒューヒュー」と口笛をカマしたくなるくらいに楽しいし、「アメリカンロケンロー」を感じる。

ちなみに私は「アメリカンロケンロー」が何たるかをミリも知らない。なんとなくこれが「アメリカンロケンロー」なんだな、と思っているだけなので、これが「アメリカンロケンロー」なんだなァってぬるい目で見守ってほしい。

さて、おふざけはこれくらいにしよう。

これほどまでに楽しさが溢れる「リムジンドライブ」。「道交法なんて守るわけねえ」とかかわいらしく悪態をついているのに、やっぱり少し切なさを帯びた情緒の存在に気付いてしまうから、THE BACK HORNは徹頭徹尾うつくしい。

それは例えば「星の降るがごとき夜」*2とか「夜をぬけ出して走ったあの日」*3という部分に表われるような、どうやっても頭角を表してしまうやわらかな情緒である。

ところで、「リムジンドライブ」の次の部分を聴くと、まったく別の曲にもかかわらず連想してしまう歌がある。

隣の国で戦争起こっても私はそ知らぬ顔で

スクランブルエッグにトースト焼いてる

THE BACK HORN「リムジンドライブ」、2000年

そう、それは「シアター」である。

今頃世界のどっかで血の雨が

降り注いでるけど僕は知らないよ

松田晋二「シアター」、2007年

曲調も時期もすべてが異なる2曲。これらが数年の時を経て交差するように思うのは、どちらも知っているのに、知らないふりをして、他の何かに没頭しているからであろう。しかも、「知っているのに、知らないふりをして」いるものがそれぞれの曲で共通している点も、そうした想像をかきたてると言えそうである。

それでは、それぞれが没頭しているものとは何だろう。「シアター」はもちろん映画そのものである。これに対して、「リムジンドライブ」では明確な何かは示されていない。が、強いて言えば、おそらく「私」の人生そのもの、とでも言えるだろうか。

突き詰めれば「シアター」だって「生きるってことに恋をしてる」*4のだから、もしも「リムジンドライブ」で「私の人生」に焦点が当てられているのだとすれば、「己の人生を生きる」ということがこれらの曲において、抽出される共通項とも言えそうである。

そもそもTHE BACK HORNの主軸には「生きること」が据えられているのだから、これは言うまでもないことかもしれないが。

今さらながら、語り手である「私」の強さがいい味を出している。この「私」の性格はなんとも竹を割ったようである。口調なんかも結構雑で少し乱暴で、有り体に言うと「なんか強い」と思わせるような印象を持っている。くだけたような人柄というか、気取らないところが見受けられるというか。

正義も政治も人の苦労など私にゃちっともわからねー

ましてや死んだ男のことなど

THE BACK HORN「リムジンドライブ」、2000年

「麗しき人」が「血しぶき」を上げて死んでしまったのを見ているにも関わらず、このあっけらかんとした様子。これはこれでそれなりに狂気を感じる。そして極めつけはこの最後である。

あれから30年経ったけれど変わらずそ知らぬ顔で

ちょっぴり甘めのカレー煮込んでる

レットイットビーなんてトボけた生き様 ババアになっても変わりねー

世界が平和でありますように

同上

スクランブルエッグにトースト焼い」たり、「ちょっぴり甘めのカレー煮込ん」だり、生活感がにじみ出ているこの歌。ある意味で、この歌には現実に引き戻すだけの引力があるとも言えるだろう。

そして、ここの「レットイットビー」の発音。この発音がキレキレで、ものすごく語感が良い。歌詞ではもちろん「レットイットビー」という表記だけど、カタカナのまま発音していないところがイケイケでとっても好き。

トボけた生き様、と言いながらもそれをババアになっても貫いているところが愛らしい。世界平和を祈るのは、これくらいポップなくらいがちょうどいいのかもしれない。

*1:THE BACK HORN「リムジンドライブ」、2000年

*2:同上

*3:同上

*4:松田晋二「シアター」、2007年

THE BACK HORN「新世界」|陽に照らし出される決意

「新世界」について最も言いたいのはただ一つ。とにもかくにも「自分と世界のバランスとる」*1という一節にこれまで幾度となく救われてきた、ということだ。しかしこれだけで留まるはずもないので、思い巡らすことを改めてここに記したいと思う。

「新世界」という単語を聞くとき、ひとは何を思い浮かべるだろう。「新」という言葉がつくからにはまっさらで明るいイメージを持つひとが多いのでは、と個人的には思う。

一般的なイメージに対して彼らが織り成す「新世界」は、どこか荒廃的であると同時に乾いた諦観をも感じさせるように思う。

「世界の果てで俺は疲れて座り込んだ」*2という節から始まる「新世界」は、明らかな終わりを終わらせたあとで、やむを得ず始まってしまった「何か」が描かれているように思えてくるのだ。

やるせなさとやりきれなさを綯い交ぜにしながらも、どこか吹っ切れたような印象を与える「新世界」。「前向き」と言えずとも、ここで表われているのは決して湿っぽい諦めではないことを繰り返し強調したい。

たとえば、「裏切りや嫉妬や生活を見てみぬ振りして」*3というところがとてもいい。何よりも、生活を見てみぬフリをしているところが、THE BACK HORNらしい言葉選びであると思う。

彼らの歌は、必ず生活と結びついていると言っていい。些細な生活が、言い換えれば日常生活が、歌という非日常のなかに違和感なく溶け込んでいて、だからこそ聴く者は共感してやまないのだと思う。

卑近な例をとる言葉たちの存在は、自身の生活、あるいは日常、もっといえば人生に目を向けるきっかけにもなる。

ところで、「生活を見てみぬ振り」するというのは、社会からはぐれそうになることも含まれるのかもしれない。たとえば自分のなかに閉じこもるとき、自ら社会との隔絶を選ぶことはままある。

たしかにインフラとか、ネット通販とか、配達物とか、こうしたものに目を向けると目に見えない誰かのおかげで、いわゆる「通常」の生活を営むことができることに気付かされる。改めて考えなおすと、ひとは一人では生きていくことができない、という事実を痛感することにもなろう。

が、そうはいっても目に見えない誰かと堅固につながっているとは思えないのが実情だろう。

家のなかに閉じこもって、外界、もとい目の前にいる他者との接点を持たずに過ごす。そうこうするうちに、自分と世界のバランスはあっけなく狂い始める。

つまり、自分という対象にあらゆるベクトルが向いた状態で過ごすと、自分と世界のバランスをとるのは至極難儀なのだ。

だから、社会的につつがなく生活を送ることを求められる日々のなかで、「自分と世界のバランスとる」という言葉はおまじないのように胸に刺さる。もっと言うとこの言葉は、自分をこの現実に引き留め、自分自身を調律してくれる言葉にほかならない。

目まぐるしく過ぎ行く日々のなかでともすると自分のなかに沈潜してしまう私は、自分と世界のバランスをとることがひどく苦手だ。

だから私にとってこの言葉は、必死になってこの胸に抱える言葉の一つでもあり、命綱でもある。

「裏切りや嫉妬や生活を見てみぬ振りを」したところで現況は何一つ変わらない。お茶を濁すのは仮初の逃避であることは誰しもが解っている。

解ってはいるけれど、どうにもならないから今だけ放棄すること、今日はやめた、となること。それは場合によっては必要な措置であり、必要な諦めなのだ。

明日やろう、と言う明日がいつ来るのかは定かではない。でも、それが気晴らしになるならば、否定すべきではないと個人的には思う。だって、自分の気持ちが何よりも大事だから。

はぐれ雲がついてくる

どうしようもねえ俺の後を

THE BACK HORN「新世界」、2000年

この「はぐれ雲」は、「はぐれ者」でもある「どうしようもねえ俺」の比喩でもあるのだろう。

行く当てもなくさすらう者がふらふらと歌うさま。それは、見方によっては歌い続けることでここから改めて根を張っていこうとする決意表明ともとれるかもしれない。

燃え上がる太陽に背を向けたまま

ふらふらと歌ったあの日から

忘れることなんてねえ

この世に生まれた俺の意味を

同上

ふらふらと歌いながらも芯が通っているものがあるとすれば、それは「この世に生まれた俺の意味」であろう。

翻ってみると、自分自身、生まれた意味を問う人生でよかったと思う。これに関してはどうしたって明確な答えがでる問いではない。懊悩することももちろんある。

が、どうにか自分なりの答えを手繰り寄せたり、どうにか言葉をあてがうことができれば、不意に心は軽くなる。それに伴い、幾許かは生きやすくもなる。

きっと彼らも繰り返し問うているのだろう。この世に生まれた己の意味とやらを。

「この世に生まれた俺の意味を」繰り返し思い出すことで、救われる心もあるのかもしれない。

生き続けること 生き続けること……

探し続けること… それの他に何もない…

同上

この堰切ったように溢れる言葉、もといノイズに遮られた声を手繰り寄せようと試みる。この部分からは、ギリギリのところで生きている様子が切に伝わってくる。苦しそうに叫ぶ声には切実さが溢れていて、チクリと胸が痛む。

日々生きるものたちにとって最低限必要なのは、上記にあるとおり「生き続けること」である。生まれた意味や生きる意味を探し、藻掻きながらもどうにか「生き続けること」を選ぶ、というその決意こそが、ここで表明されていると思えてくる。

疾走感とともに語り出されるこの決意は、聴く者を貫くオベリスクでもあるにちがいない。

ふと思ったのは決意の歌、だから「新世界」なのかもしれない、ということだ。

これをどうにか敷衍してみよう。

「新世界」という区切りは、これまでとこれから、つまり、決意をする前と、決意をしたあとの世界を分けたものである。それゆえに、決意をしたあとの世界、もといこれから先の世界のことは、「新世界」として描かれている、と見ることができるのではないか、ということである。

彼らは、「太陽に背を向けたままふらふらと歌った」*4と言った。陽に背を向けている、と聞くと、たしかに少しだけ後ろ向きな印象を与えもする。が、太陽に背を向けているということは、紛れもなくその身が太陽に照らし出されている、ということでもある。

決して忘れることがなかった「この世に生まれた俺の意味」*5。それは、「俺」の存在とともに、煌々と燃える陽に照らされ続けているに違いない。

*1:THE BACK HORN「新世界」、2000年

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:同上

THE BACK HORN「走る丘」|生きる覚悟を賭して

精神状態や精神の成熟度合いによって歌の響き方はそれぞれ異なると個人的に思っている。これまで繰り返し聴いてきたはずなのに、『甦る陽』が最も響いているのは今この時の自分であることがやけに感慨深く、不思議な面持ちである。

『甦る陽』を聴いていると、心に新たな炎が灯るような感覚を覚える。新たな命が芽吹くように生き生きと愛が繁茂する。知っていたはずなのに、本当は何も知らなかったのかもしれない。深く慙愧に堪えない思いになるとともに、深淵に潜り込める可能性に歓喜する。

『甦る陽』の2曲目である「走る丘」。タイトルだけを耳にすると、存外シュールである。

これは自分が転倒すると世界がひっくり返ったように見える錯覚を示しているのだろうか。そこに泰然とある丘が走るというのだから、もしかすると自分は遅々として一切進めない状況に囚われている状況に陥っているのかもしれない。

生きる、ということにがんじがらめになって動けず、あまつさえ立ち止まってしまうこと。それを通り過ぎれば笑い話にもなるが、渦中にいるときは笑えるどころか拳を強く握りしめ、苦虫を噛み潰したように渋い顔をするのが常である。

そして何よりも「極から極へと移り変わり行く心の明暗」*1という言葉の破壊力。まごうことなきパワーワード、もっと言えばマントラから幕を上げる「走る丘」があまりにも熱くて、丘が走る幻影が見えそうである。

明滅を繰り返すように目まぐるしく変転する情緒を扱うには、私の熟練度は随分足りない。出だしから一言一言噛み締めるように歌いだされる時点でもはや忘我の境地に至る。

こんなにも歯ァ食いしばって生きていこうとするさまを目の当たりにして心が動かないわけがない。

日々生きることに苦悩を浮かべているところに共感を覚えるのは些か横暴だけれど、扱いきれない厖大な熱量に藻掻き苦しみ、ひたすら呻吟しているさまには心底感じ入るものがある。

「弱さはもろくも明日の光すら閉ざしてしまうのか」*2という問いは、真綿で首を締めるように侵蝕していくようにも思う。光を受け取ることにも、少なからず勇気が必要だ。

たとえばかじかんだ手をお湯で温めようとすると、ぬるま湯でさえ熱く感じる。夜目には間接照明だって眩しい。

これと似ていて、かじかんだ心を温めるやさしさ、あるいは影を照らす光というのは、やさしすぎたり明るすぎると劇薬よろしく火傷しそうにもなれば、目がつぶれそうになるほどに目を眩ます威力を秘めている。

そうして拒絶したやさしさや光が、これまでにどれだけあっただろう。それと同じ数だけある「過ちと過去を悔やむ夜」*3をどんなふうに過ごしてきたのだろう。

そんなことは考えるだけ野暮だと理解していながらも、行間に潜む明滅する心の存在が気になって仕方ない。「全てを捨て 裁きを待つだろう」*4と自暴自棄に吐き捨てるところにも鮮やかなまでに胸が引き裂かれそうになる。

走る丘 かき消す記憶

涙浮かべて今、生きよう

生きようとも 生きるとも

THE BACK HORN「走る丘」、2000年

彼らが描く生の歩みはこの部分にきっと収斂しているとみて間違いない。「涙浮かべて今、生きよう 生きようとも 生きるとも」と自分を説き伏せるようにして、どうにか生きることを選ぶところがこのうえなく美しい。泥臭く、人間臭く、そして何よりも勁い。この逞しさは繰り返し銘記したい姿である。

このほかにどれだけの言葉を重ねようとも、全ての帰趨するところはこの節であると確証を得るほどには、この言葉がTHE BACK HORNの軸に据えられるとさえ思う。あらゆる想いが凝縮されたこの言葉を、何度でもそらんじよう。いつだって口ずさもう。そして、己の血肉としよう。

ところで、「失う事の怖さに怯えてそれを抑え込む」*5という思いを抱くのは、誰しもが一度は経験していそうである。同じ目線に立って自身の経験を紐解くような表現が見受けられるところからも、勝手ながら親近感がわいて一層愛おしいと思う。

彼らもやはり人の子で、平等に地獄を飼いならそうと躍起になったり、藻掻いている。そしてその軌跡は、音楽のなかに刻まれている。

猛る声この身を乗せて

時の果てまで 遠く飛んでゆけ

意味あるものを灰にして

同上

「猛る声」と表現するところが痛々しくもあり、切ないとさえ思う。「意味あるものを灰にして」しまうところもチリチリと胸が痛む。

「走る丘」を喉の底から叫び歌う声はまさしく「猛る声」に等しい。その身に乗せた猛る声とは、すなわち自重をすべて乗せた声であり、魂が宿ったどっしりとした声のことであろう。

たしかに、いわゆる「シャウト」と称される歌声は数多くある。が、この「猛る声」を聴いていると、山田将司が叫ぶそれには、単に「シャウト」と呼ばれるものよりも、一層深いところで叫ぶ魂が存在していることを肌で感じる。声が際立たせる魂の存在から、目が離せない。

喜び悲しみ 嘆く日々

おお全てを捨て

裁きを待つだろう

同上

心の明暗が「極から極へと移り変わり行く」ことを繰り返し強調するかのように、ここでは「喜び悲しみ 嘆く日々」に触れられている。個人的に痛感しているのは、あまりにも激しく変動する情緒の手綱をどうにか引きたいと思えど、情緒に翻弄される日々にお手上げであるということだ。

とはいえ、この情緒があったから否応なしに惹かれるものもあったにちがいない。正直なところ、その筆頭がTHE BACK HORNだったと思いたい節もある。

最後の最後、念を押すように繰り返される覚悟を秘めた言葉たち。私ももう一度、否、何度でも繰り返したい。そして窮地に陥ったときこそ、どうにかこの光を思い出したい。自分自身を説きつけるように、言葉を食むように。

涙浮かべて今、生きよう

生きようとも 生きるとも

同上

*1:THE BACK HORN「走る丘」、2000年

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:同上