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両手いっぱいの好きなものについて

THE BACK HORN 「水槽」|うねりのなかから飛び立つもの

「水槽」という名前からは想像がつかない不穏な空気が漂う前奏。聴いた瞬間「何これ…」と惹きつけられることは必至である。気を抜くと「この前奏ヤバい」としか言えなくなるので気を引き締めていきましょう。

ところで「水槽」という単語から私が連想するのは、明るい部屋にある透明なガラスと透明な水、そのなかを気持ちよさそうに泳ぐ熱帯魚たちと、そこで揺らめく小さなイソギンチャク。水槽のサイズはそこまで大きくなくて、いわゆる家庭用としてよくあるもの。そして、あの空気がでるやつ。エアレーションと言うらしい。月並みな発想だけれど、つまりは水槽に対して結構キラキラしたイメージを抱いている。

これに対してTHE BACK HORNの「水槽」はというと、個人的には暗室にある大きな水槽がイメージに近い。こう思ったのは、「水槽」全体を漂う音の運びがおどろおどろしくも緩やかだから、そこから大魚が泳ぐ姿を連想したためだろう。私のイメージではこの大魚はピラルクだ。水族館で展示されているような大きな水槽のなかで泳ぐピラルク。水族館自体薄暗い空間だけれど、ピラルクの水槽は周辺の薄暗さと相俟って物々しい雰囲気さえも醸し出している。そのなかでどっしりとその身を預けるように堂々と泳ぐ姿を呆然と見ていたい。

たとえば暗い部屋にある水槽を思い浮かべてみる。暗い部屋のなかにある水はそれが透明かどうかも瞬時には解りかねるし、もしそれが部屋一面を埋め尽くすような大きなものだとしたらそれを見た者は水の存在感に圧倒され、不気味な気持ちさえ抱くかもしれない。それは夜の海辺に一人で立ち尽くすような心細さと恐怖にも似ているように思う。大きさとか、中身とか、瞬時に感知することは難しいものを目の当たりにするとき、不気味に思う気持ちと好奇心がくすぐられる気持ちとがせめぎ合う。

THE BACK HORNの「水槽」には得体の知れない生命体が潜んでいるかのようである。なんだか不思議だと思う気持ちをうまく説明できないけれど、たぶんこれに言葉をあてがうならば、藤子・F・不二雄先生が言った「すこしふしぎ」という意味合いでのSF感*1がもっとも近いように思う。

弦がキリリと金属音を放っているところとか、絶えず空気がコポコポと吐き出されるような音とか、鬱蒼とした音と声の調和すべてが不気味さに拍車をかけ、そこはかとないSF感を演出している。「水槽」という楽曲のなかで音が象る世界の幅に圧倒されずにいられようか。

抜け殻を残してく背中
今日も空は不完全僕を壊す
THE BACK HORN「水槽」、2001年

身も蓋もない言い方だが、ちっとも明るくないところにグッと惹かれる。「抜け殻を残してく背中」というフレーズから、育ちゆく懊悩が殻を破って成虫になっていく姿が何とはなしに連想される。

ここで具体的に思い浮かべたのはヤゴがトンボになっていく姿だ。水中のなかですくすくと育ったヤゴが羽化のために水面から出てくるのと似た様子で、水面下で蓄積されていた懊悩も羽化する。先述した大きな水槽のなかにヤゴがいるわけもないので、このガバ設定には目を閉じてほしい。

ところで改めて「水槽」を聴いたときにまず思ったのは「こんなにかっこいい曲でしたっけ…」ということ。改めて言及するまでもなくすべてかっこいいんですけどね、とはいえもう一度、もう何度でも、このかっこよさについて主張したい。この得も言われぬ音のぶつかり合いを聴いていたら、これまで抱いていた印象を上塗りしていくような気分になって、唖然としながらも胸の高鳴りをしかと感じる。聴くたびにかっこよさが更新されていく現象、本当に不思議でならない。

「水槽」ではポエトリーリーディングもとても印象的だ。個人的にですがこのポエトリーリーディングがね、本当にとても大好きなんですよ…。わずかな時間に凝縮された静謐さはまるで内緒話のような聖域を思わせる。水槽のなかで絶え間なくぶくぶくと空気が吐き出されているような音が交差するなか、耳を傾けるとかすかな声が聞こえる。じっくり耳を傾けないと聞き取れないこの囁きは水流がごとき音のなかを泳いでいくのだが、一瞬でその場を去ってしまう。

だから私はこれらの音を、あるいは声を聴き洩らさないように繰り返し繰り返し耳をそばだてる。こうしているうちにぷかぷかとゆらゆらと、私の心も浮かんでいく。が、次の瞬間、ものすごい水流、もとい轟音に呑まれるようにしてハッと我に返る。

ほら目覚めよ無数の感情が
足りない空を満たしてる
虜われてる僕達は音もない水槽の中
そう今飛び立つ自由なあの空へ
同上

うねりのような轟音のなかを、どっしりと、堂々と、声が泳ぐ。終盤にかけて生命の萌芽を彷彿とさせるように音が膨らんでいくのを感じるのだが、水槽という枠組みのなかから「自由なあの空へ」飛び立つものは何だろうか。ここで満を持して飛び立っていくのは一体何だろうか。

そして胸をつくのは最後の最後に「あの空へ」と歌い上げるところ。ここでさらなる力を振り絞って一押しされる声とその圧力に、これまで堰き止められていた感情が押し出されるような印象を受けもする。終局と同時に押し出されていく感情、それは解放される懊悩かもしれない。はたまた昇華されゆく鬱屈かもしれない。

いずれにしても、この歌が織りなす深奥に少しでもいいから触れたいと思う。手に取ることはできない感情の揺らぎを、傲慢にも紐解きたいと思う。この音のうねりに呑まれるながら、「水槽」が湛える神秘に想いを馳せる。何度も、何度も、この曲が放つ不思議な魅力に惹きつけられながら。